小説「ほんの束の間のこと」 episode.3 十三回忌 その4
しかし一度だけ、転校してきた出席番号十番の清志と幼馴染の彼女の家を訪問したことがある。私一人では勇気をもってしても訪問すらできないところを、彼が彼女と家が隣同士ということもあり、川で泳ぐにしてもエリアが同じだったし、転入時から家族の付き合いもあったから楽に家に入れたという強みもあった。母親が出て二人の友人が来たことを彼女に告げる。
中に初めて招じ入れられ、私も彼女も照れていた。それから三人でアルバムを見ることになった。何となく気恥ずかしい気持ちと嬉しさが入り混じった複雑な心境でアルバムを見ながら出されたお菓子を食べて三人で照れながら笑ったりしていた。しかしこれは我ながら中々の快挙であった。
そういう偶然のようなチャンスは滅多に訪れないからだ。ちょうどその年の夏由紀さおりが「手紙」というレコードを出して、清志宅で聞いていたから高校一年の夏の頃だ。子だくさんのその友人宅は、道路際の階が入口だが二階になっている作りで、道路下に建物の基礎があった。
そんな家屋は他にもあり、三人組の一人、私の斜め向かいの志朗宅も眼鏡屋で、道路際の階が商店と居宅になっており、一階は納屋になっていた。閑散期は納屋の外には足踏み式の脱穀機や唐箕などの農機具が所狭しと並べられてあった。その眼鏡屋の入り口のガラス引き戸のガラスには「めがね」と赤字で大きく書かれていたが、偶に逆様になっていたから外から見ると「ねがめ」にしか読めなかったりした。
冬のある日私がひとりで家の横にある単車用車庫の前の坂のところで一面の雪に魅せられて、ドラマで演じる役のように一人芝居をやっていた。斬られたら死ぬシーンを再現していた時だった。雪で見えなかったが、ちょうど私が倒れたところに瓶のかけらがあったのだろう。一瞬にして私の左手は血で真っ赤に染まり、それを右手で押さえながら立ち上がり、家まで歩いた。目の前の道をちょうど通り過ぎる隣の地区のおばちゃんが私を見て笑っていた。誰も私に起こったことに気付かなかったせいだ。
父と母はちょうど家の中の土間で臼を置き餅つきをしている真っ最中だった。父がタオルで止血した後直ぐに診療所に向かったが、傷が思ったよりひどく診療所では処置できず、その足で旅館に走った。旅館の主は、郵便局長も兼ねており、車を所有していたので海のある町まで乗せてもらい、町の病院に行くことになった。十二針縫う怪我であった。左手の頭脳線を遮るように真横に切れていたから、それからの運勢も少しは変わったのかも知れない。一時期私は包帯で手を胸の前で吊るという格好で登校することになった。
局長を父に持つ向かいの旅館の弘君が郵便局の卓球台を自由に使えたからか、私もお蔭でその頃卓球というものを覚えたが、その頃にはもう両手は自由に使えるようになっていた。
祖母方の家の並びには同年齢で私より二日前に生まれた従弟(厳密に言えば従兄であるが、年下に見えた)の敦の家があり、私の家系で言えば母屋であった。入口を入るや結構広い土間があって、流しのところに野菜を鍋に入れて水を少しずつ出しっ放しにしてあった。従弟はお腹が空いたと言っては、窯のご飯を茶碗に掬い醤油をかけて「こうしたらうまいんじょ」と自慢しながら食べていた。砂糖と水を混ぜてかき混ぜた「砂糖水」を作って飲むという技を教えてくれたのも敦だった。
従弟の父親である伯父は父の三つ年上の兄で長兄であったが、目が悪く斜視で人を見た。父は斜視ではなかったが遺伝的に目が悪く、いつもそれをこぼしていた。昔侍の時代に刀で人を切った因縁であると言う人もいた。父は「お前らは目がいいから何でもできる。父ちゃんは目が悪いからできん」と酒が入ると決まって同じ台詞を言った。斜視の伯父でも少し遠いところから私を見れば判るらしく、じっとこちらを見据えた後「おおい」と言って話しかけてくる。顔はそれでも私を見るではなく違う方向を見ていた。それでも伯父がいる際に母屋に上がると、ゆっくりしてけ、とか、よう来たとか言ってもてなしてくれていた。
その母屋にも離れがあって、私達が成人した時にその「裕福な」彼女を招いて三人だけのささやかなパーティを催したことがあった。なぜ三人だけがそこに集まることになったのか。
従弟の敦は非常に陽気な羨ましいほど楽天的な性格であった。ただ小学四年生の時に寺から賽銭を盗んだりしたことでちょっとした騒動になったことがある。騒動とは言っても一部の人しか知らないことだったが、それが担任の知るところとなり、咎められた。全員が揃った時に、教室のみんなに一人ずつ謝れと言われ、泣く泣く敦は一人ずつ机の横を移動しながら全員に謝罪して回った。
彼にとっても教室の誰にとっても一種の痛みを共有した瞬間であった。従弟の仕出かしたことで教室では私と眼鏡屋の倅とは目配せしながら照れ笑いしていたが、女子は泣いている人もいた。その一人が彼女だった。当事者の彼と私は親戚であるからそれから長い間付き合っていくことになるのであるが、このことがあって以降彼女は常々彼のことを気にかけていたようだった。
担任の水野先生は熱血漢で大学時代に学生運動で逮捕されたと聞かされた(六十年安保闘争だと思われる)。徹底しているのは、ノートに名前を書き忘れたりしたら、その場でノートを破られ、先生にその場で代金を貰い、近くの商店まで買いに行かされた後、運動場一周走らされるというペナルティを伴った。
その先生は私たちの四年と六年を受け持つことになったが、何か気に食わないことがあると授業を中断して直ぐに「運動場へ集合」がかかる。例えば先生が黒板で説明している時に教室の誰かが隣の人と話をしていると、直ぐさまチョークが飛んでくる。そうなれば先生もやる気が出なくなるから授業は中断。つまりドッジボールが始まるのだ。気まずい思いをする当人を除いて子供たちが喜んだのは言うまでもない。それも連帯責任を植え付ける教えの一旦かも知れない。
遠足で熊野灘に面した名所である鬼ヶ城に行った時のこと、女性が一人仰向きに海に浮かんで波間に漂っているのが見えた。すると熊野出身のその先生はみんなの見ている前で直ぐに飛び込んでその女性を救出した。熊野灘のその付近の海は気持ち悪いほど暗くて黝い色をしてどこまでも深い海である。そこへ飛び込むのは子供たちを前にした他のどの教師でも勇気が出なかったに違いない。その様子は早速翌日の地元の新聞に載り先生は英雄扱いだった。修学旅行で伊勢に行った時にはたまたまアフリカのガーナから黒人が二人観光に来ていて、流暢な英語で彼らと話をしていたのを憧れの気持ちで見ていた記憶がある。
教室では竹の根っこで作った杖より小さな「鞭」と称する物をいつも手にしていた。竹でしなるから机を叩いた時にはビシッというかなり大きな音を立てた。時折恐い話をしてくれた時にもその鞭が活躍した。
クラスは各学年一クラス(教室)しかなく、私たちの教室は三十二人、そのうち男子は転校してきた者を含めて十人しかいなかった。
女子のうち一人病気で一学年留年した者がいて三十三人になったが、直ぐに仲良くなった。しかし中学生の時に横断中車にはねられて亡くなった女子がいてまた三十二人になってしまった。その後何十年になっても私は年に二度の墓参りには欠かさず彼女の墓前で手を合わせることにしている。
幼馴染の彼女が児童会の会長になると呼応したように私が書記を務めた。私は、六年の夏前後には放課後にはその担任に座卓がある作法室に一人残されてドリルのようなものを科目ごとに区切ってやらされていた。というのは私が小学校を卒業する前に都会の私立中学を受験することになったからで、放課後と言えばみんな校庭でドッジボールに勤しむ声が盛んに聞こえてくる。また作法室といえば数人で手持ちのプラスティック製のコインを投げ合って取り合いをするゲームをしていた場所だった。
作法室の畳の部屋で、スタートする地点を決めてコインをそれぞれが出来るだけ遠くに投げる。二回目は徐々にコインとの間を狭めていく。投げた際に自分のコインと他の者のコインが自分の開いた手の親指と薬指の間で触れる距離であればコインを奪えるというものだった。
百人一首や坊主めくりも作法室でした。好きな札を諳んじており「瀬を早み~」などと読み手が歌うと自然に前屈みになって既に見つけていた「別れても末に」の札をたたく。坊主めくりでは猿丸太夫や蝉丸が出ませんように姫が出ますようにと心に祈りながら札をめくって遊んだ部屋でもあったから、ひとりここに閉じ込められているというのは辛い毎日であった。
それでも担任の先生の指導には感謝しており合格結果がその担任を通じてみんなの前で披露された時には照れくさくも嬉しかったのを覚えている。
試験の前日父とバスで町に向かうことになっていたが、荷物を入れたバッグをコーバイの前のバス停に忘れてきてしまったことにバスに乗って五分くらいして気付いた私は、父に直ぐに忘れ物をした旨言い、運転手にその場でバスから降ろしてもらった。降りる前にそのバスの中で父が「何しとんなぁ」と怒鳴って、私は思い切り背中をど突かれた。その声の響きには、(一日二回の運行しかないのに)呆け呆けしてどうするんか、この大事な時に、というニュアンスが含まれていた。人生で後にも先にも父にど突かれたのはこの時一度だけだった。そこから歩いてまた二人でバス停まで戻った苦い思い出も結果発表と共に思い起こされた。
先生は「トラジトラジ、ト~ラ~ジ~可愛いトラジの花咲いてる」と韓国民謡のトラジの歌をよく歌っていたが、私達には「慌てるな。慌てて死んだ人がいる」が日頃の口癖であった。私も血気盛んな若者になって「慌てて」大怪我をしたから、その通りであった。時が経ち、姪のいた学校の教頭でいた時期に縁で繋がった義兄から教えられ、先生が亡くなったことを知った。
熱血漢の当時まだ若者であった先生が亡くなり、斜視の伯父、その伯母も亡くなった。そしてその義兄も最近鬼籍に入った。
私がその村から離れてしまうと、彼女もその後東京に出て区立中学、都立高校、そして公立大学へ進学することになった。中学三年から高校一年までのわずかな間ではあったが、私と彼女は文通をしていた時期があった。青春の一時期ではあったがお互いに励ましながら過ごしていた。彼女から手紙が来たのが分かると、開けるまでそわそわ落ち着かなかったものだ。
祖母の考えに従えば身分が違う二人だが、共通点は、似たような時期に郷里を出て都会で過ごすことになった点、文通という当時ではわくわくする通信手段によってお互いを高め合うことが出来た点であった。今でも彼女から送られてきた八通の手紙は、当時のチョコレートの黄色い箱に入って仕舞ってある。思い出してそれを押し入れの中から出して読んでみる。五十年近くも経っているが、あの時に味わった新鮮な感情ないし感動が沸きだしてきた。特に何通目かに彼女が中学三年生のクラスメイトに試験の成績を教えたことで成績が他の者に伝わり、二人の間にちょっとした感情のわだかまりが出来て、そのことを私に訴える彼女の気持ちが高ぶっている場面が想起できるところも読み返すと懐かしかった。
私は彼女に何かを期待していたのだろう。同じように彼女も私に似たようなことを求めていたように思う。
彼女が成人後の三人でのささやかなパーティでひどく悪酔いしてしまい、私が背中をさすったりして介抱する役をしたのだが、その様を見て従弟の敦が意味ありげな顔でにやにやしていたのを思い出す。彼女が悪酔いしたのも私の不甲斐なさのせいかも知れないし、従弟のせいかも知れない。ただそれから以降、私が就職してから私に猫をにじり寄せてきた従兄の和之と彼の幼馴染の女性(従兄の現在の妻)、私と彼女と四人で車を出して海にドライブしたことがあるが、それ以上に彼女と結びつくということはなかった。私は彼女を好いていたが、彼女の気持ちを確かめられないままに離れてしまったからだ。