小説「ホーチミン・シティ」6
6 奈良から京都の旅へ(最終章)
私は昔ベトナム人のベト君とドク君が国内の医療チームにより分離手術することになり、その時私が作った詩を思い出していた。彼らも和と同じ苗字のグエンだった。
僕たち二人はずっと一緒だったよ
ヤシの実を割って二人で食べたね
家に帰ったらまた一緒に食べようよ
今身体が分かれていくけど
果てしない海が二人を隔てたとしても
二人はいつもこうして繋がっているよ
ああ僕の身体が切り離されていく
でも、これからも二人はいつもいつも
一緒だからね
手を合わせて こうやって ほら
(※写真は、ドクさん一家。1988年の今日(10月4日)ホーチミン市トゥーズー病院で分離手術が行われたのであるが、分離後兄のベトさんは、重い脳障害を発症し、二十六歳の若さでこの世を去った。ドクさん夫婦には、男女の双子の子供が誕生、子供には日本に因んだ名前が付けられ、男の子はPhu Si(富士)、女の子はAnh Dao(桜)とそれぞれ命名された、と記事は伝えている。「VIET JO」 より)
翌日も島野氏は出来るだけのことをしてやりたいと私に言い、二人で打ち合わせをした。今回のプランは奈良、大阪、京都で宿泊は夏が予約していた。そこで二日目の大阪は島野氏が、三日目の京都は私が案内することにした。
大阪では道頓堀や通天閣といった定番の観光地を見学したらしい。私は左京区の東山にある永観堂から南禅寺へと巡り祇園界隈や八坂さん辺りを案内した。
夏が自分で選んだ祇園を拠点にする京町風の宿を取っていたので案内し易かった。夕食は先斗町に出かけて夜の街を散策しながら三人で食べて、私もその夜は高野川沿いにある一度泊まりたかった宿に予約して泊まった。
京都のほんの一部を切り取って観るだけの一日だったが、なぜか二人は充実した顔をしていた。
翌日の朝二人をホテルに迎えに行く。グエン(和)にとって島野氏をはじめ日本人のもてなしは予想外だったらしく感嘆の念を禁じえない様子であった。特に思い焦がれていた父親として接してくれたこと、記念写真を撮り亡くなった母への土産が出来たこと、島野氏が死ぬまでにもう一度ベトナムを訪問する約束をし、別れ際、グエンを私がそう呼んでいた「カズ」と呼んで「ありがとう」と言ったこと等予期しないことばかりであった。
私の車で京都駅まで二人を送り、私の時にシン(夏)がしてくれたと同じく新幹線ホームで二人を見送った。見送りは島野氏にとって辛いことだったろうし、次の再会を約しての別れは私の役目であった。
別れ際に和が、またシクロに乗せてやる、今度は違う場所を案内するからホーチミン・シティにぜひ来て、と身振り手振りを交えて言い、私の身体を篤く抱きしめた。やがて十四番乗場に新大阪行き「のぞみ」が入って来た。他の客に交じって彼らも乗車した。ドアが閉まった。夏は振り返って私に何か伝えようとしたが聞こえない。口の動きでそれが I’m happy. と言いたかったのだと分かった。 私はシンに頷いて応えた。
列車が発車して見えなくなるまで私はずっと手を振って見送っていた。新大阪で乗り換えて関空へ。短い間ではあったが、誰にとってもそれぞれ貴重な四日間がこうして過ぎて行った。(完)