太平記を読まないか? Vol.8~巻1-⑧「昌黎文集談義の事」~
[はじめに]
このシリーズが最後に更新されたのはなんと9月である。あまりにも前の事で、本当に申し訳ないという気持ちと、なぜここまで遅くなったのか自分でも分からない気持ちがないまぜになっている。ともかく、年も明けた事だし(もう2月だが)、また細々と更新してゆきたいと思う。どうぞよろしく。
『太平記』巻1「昌黎文集談義の事」
[原文①]
かの僧都、謀反の企てとは夢にも知らず、会合の日ごとにその席に臨んで、玄を談じ理を分かつ。かの文集に、「昌黎潮州に赴く」と云ふ長篇あり。この所に至つて、談義を聞く人々、
「これは不吉の事なり。呉子、六韜、三略なんどこそ、しかるべき当用の文なれ」とて、昌黎文集の談義をば止めてけり。
かの韓昌黎と申すは、晩唐の末に出でて、文才優長の人なりけり。詩は、杜子美、李太白に肩を較べ、文章は、漢、魏、晋、宋の間に傑出せり。かれが猶子に、韓湘と云ふ者あり。これは文学をも嗜まず、詩篇にも携はらず、ただ道士の術を学んで、無為を業とし、無事を事とす。
[現代語訳①]
この僧都は、(帝による)謀反の計画があるとは夢にも思わず、会合があるごとに出席して、深遠な道理を説いた。講義に使っていた昌黎文集の一節に「昌黎潮州に赴く」という長篇があった。ここを読む時になって、講釈を聞いていた人々が、「これは(謀反の計画を進める上で)不吉なものだ。『呉子』や『六韜』、『三略』などがさしあたって有用な書物であろう」と言って、昌黎文集の講釈を止めて(止めさせて)しまった。
この韓昌黎という者は、晩唐の末ごろに現れた、優れて文才のある人だった。彼の詩は、杜甫や李白のそれに比肩しうるもので、文章は漢から宋までのうちでも傑出していた。昌黎の兄弟の子に、韓湘という者がいた。彼は文学を嗜む事なく、詩を書く事もなく、ただ道教に説く神仙の術を学んで、自然のままいる事をなりわいとし、人為を加えないのを好事とした。
[原文②]
或る時、昌黎、韓湘に向かつて申しけるは、
「汝、天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。これ君子の恥づる処、小人のする処なり。われ常に、汝がためにこれを悲しむこと切なり」
と教訓しければ、韓湘、大きにあざ笑つて申しけるは、
「仁義は大道の廃るる処に出でて、学教は大偽の起こる時に盛んなり。われ無為の境に優游して、是非の外に自得す。されば、真宰の臂を掣いて、壺中に天地を蔵め、造化の工を奪つて、橘裏に山川を峙つ。却つて悲しむらくは、公のただ古人の糟粕を甘んじて、空しく一生を区々の中に誤る事を」
と答へければ、昌黎重ねて曰はく、
「汝が云ふ処、われ未だ信ぜず。今則ち造化の工を奪ふことを得んや」と問ふに、韓湘答ふる事なくして、前に置ける瑠璃の盃を打ち伏せて、やがてまた引きあふのけたるを見れば、忽然として、碧玉の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎、驚いてこれを見るに、花の中に金字に書きたる一聯の句あり。
[現代語訳②]
ある時分に、昌黎が韓湘に向かって言うには、「お前はこの世に生まれてから、人たるべき道を外れてふらふらとしている。これは特の高い者にとって恥ずべき所であり、下賤なものがする事だ。私はいつも、お前がふらふらとしているがために、これを思って悲しみに暮れているんだ」と説教した。これを聞いた韓湘はたいそう嘲笑い、「仁義は根本の道徳が廃れたところに表れて、学問と教えは大きな偽りが起こる時に限って盛んなのです。私は人が決める善悪の基準から離れた境地に入って穏やかな心持ちでいます。だから、天に干渉して壺中に別天地を収め、造化の神の業を奪って、自分の趣味に没頭しているのです。古人の言いまわした論に社会がただ甘んじるばかりで、一生を細々した事で誤ってしまう事の方がかえって悲しい事でしょう」と答えると、昌黎は重ねて「私にはお前が言っている事をまだ信じられない。今すぐに造化の神の業を奪えると言うのか」と言い、韓湘に問うた。韓湘は答える代わりに、自分の前に置いてあった瑠璃の盃を一息に逆さまにし、やがてまた引いて元に戻すと、俄に、緑に輝くあでやかな花が一枝あった。昌黎が驚いてこれをよく見ると、花の中に金字でひとつづきの詩句があった。
[原文③]
雲秦嶺に横たはつて家何にか在る
雪藍関を擁して馬前まず
昌黎、不思議の思ひをなし、これを読むに、再三詠吟するに句の優美遠長なる体製のみあつて、その趣向落着の処を知り難し。手に取つてこれを見んとすれば、忽然として消え失せぬ。これよりしてこそ、韓湘仙術の道を得たりとは、天下の人に知られたり。
その後、昌黎、仏法を破りて儒教を貴ばるべき由、奏状を奉りける咎によつて、潮州へ流さる。日暮れ、馬泥んで、前途程遠し。遥かに故郷の方を顧みれば、秦嶺に雲横たはつて、来たりし方も覚えず。悼んで万仞の坂に上れば、藍関に雪満ちて、行くべき末の道もなし。進退歩を失つて、頭を廻らす処に、いづくより来たれるとも思はず、韓湘、悖然として傍らにあり。
[現代語訳③]
雲が秦嶺にたなびいている。我が家はいづこにあるか。
雪が藍関を覆っている。馬は前に進みそうもない。
昌黎は(刻まれた句が)気になってこれを詠んでみた。何度も詠吟してみると、句にはただ尽きない趣と優美な情景があって、その意味がどこへ落着するのかが分からない。手に取って確かめようとすると、忽然と花は消えてしまった。このような事があったために、韓湘が仙術を会得したと国中の人々に知られた。
その後、昌黎は仏法ではなく儒教を重んじるべきであるという奏状を奏上した罪に問われて潮州へ流された。日も暮れ、馬が進むのに難渋した事で、前途はあまりにも遠く思われた。遠く、故郷の方を顧みると、秦嶺には雲がたなびき、歩んできた方向も分からない。悲しくなって高い山に登ると、藍関は雪に覆われ、これから歩むべき道も見えない。進退窮まって昔に想いを巡らせていると、どこからともなく、突然韓湘が側に現れた。
[原文④]
昌黎、悦びて馬より下り、韓湘が袖をひかへて、涙の中に申しけるは、
「前年、碧玉の花の中に見えたりし一聯の句は、汝、われに予め左遷の愁へを告げ知らしめけるなり。今また汝ここに来たれり。料り知んぬ、われつひに謫居に愁へ死して、帰る事を得じと。再会期なくして、遠別に遇ふ。豈に悲しむに堪へんや」とて、前の一聯に六句を続いで、韓湘に与ふ。
一封朝に奏す九重の天
夕に潮陽に貶せらる路八千
本より聖明の為に弊事を除かんとす
豈に衰朽を将つて残年を惜しまんや
雲秦嶺に横たはつて家何にか在る
雪藍関を擁して馬前まず
知りぬ汝が遠く来たること須く意有るべし
好し吾が骨を瘴江の辺りに収めよ
韓湘、この詩を袖に入れて、泣く泣く東西へ別れにけり。
誠なるかな、「痴人の面前に夢を説かず」と云ふ事を。この談義を聞きける人々の、忌み思ひけるこそ愚かなれ。
[現代語訳④]
昌黎は喜んで馬から下りて、韓湘の袖を掴んで涙を流しながら、「前に碧玉の花に書かれてあったひとつづきの詩句は、お前が左遷の事を私に予言するものだったのだな。そして今、またお前がここに来てくれた。私には分かるのだ。最早私は故郷に帰る事の出来ぬまま、流罪に憂え死ぬと。この後また会う事は出来ず、遠く離れてしまうのだと。どうして、この悲しみに耐えられようか」と言って、(花に書かれた)前のひとつづきの詩句に六句を続けて、韓湘に渡した。
朝、一つの封事を天子に奏上し
夕、潮陽に左遷される道は八千里
徳に優れた天子の為に弊害を除こうとしたのだから
どうして朽ちながら余命を惜しむだろうか
雲は秦嶺にたなびき、自分の家が分からない
雪は藍関を覆い、馬は進もうとしない
知っている、私を思って、お前は遠くからやってきたのだろう
それならば、私の骨を瘴江のほとりに埋めておくれ
韓湘はこの詩を袖に入れて、泣く泣く昌黎と別れていった。
「痴人の面前に夢を説かず」とは、まさにこの事なのだろう。僧都の談義を聞いていた人々が、この話を忌避する事は愚かであるなあ。
[解説]
ここまででおおよそ4,000字に届くかどうかと言った具合だ。よくぞここまで読んでくださった。
今節で語られているのは、僧都が講義を止めてしまった……というより止めさせられた昌黎についての説話である。
昌黎という呼び名では知らない人の方が多いだろうが、彼は中国中唐の詩人・韓愈(字は退之)である。乾隆帝が編んだ『唐宋詩醇』では唐の四大家の一人に数えられ、唐宋八大家の一人にも数えられている。韓愈は三度の落第を経て科挙に合格(及第)した後、様々な官職を歴任した後、淮西節度使の乱鎮圧の行軍司馬となり、その功績によって乱後に刑部侍郎となった。
しかし、今節でも述べられている奏状「仏骨を論ずる表」を奏上したために、潮州に左遷された。ただし、文中で述べられているような悲嘆の中で死んでいく……というのではなく、三年後には吏部侍郎に至るなど比較的"マシ"な晩年を過ごしている。
文中の韓湘も実在したとされている。彼は韓愈の甥であるとされ、韓愈が儒学を尊ぶのに対し韓湘は道術を修めているために言い争う事があったという。これは文中でも語られている通りだろう。左遷された韓愈が会った時には、韓湘は既に仙人になっていたとされる。
・兵法を重んじる聞き手、批判する書き手
文中冒頭では、僧都の講義を聞く(という体で集まっている)貴族・武士らが兵法書を講義するよう求めている。文中で挙げられている兵法書はいずれも中世日本でよく読まれていたものであり、倒幕の具体的な計画・戦術を練る為に必要だと判断したのだろう。しかし、僧都は本当に講義を聞く人達だと考えているから、うまく嚙み合わないのである。
文中最後の、「痴人の面前に夢を説かず」というのにも元々のことわざがある。「痴人の面前に夢を説く」というもので、相手に話が通じないこと、話しても空しいことの例えを言う。初出は宋代の儒学者、朱熹の『答李伯諫書』に見える「此正痴人面前夢之過也」とされている。天子を慮る韓愈(昌黎)の奏上と、その後左遷されるも、
「 本より聖明の為に弊事を除かんとす
豈に衰朽を将つて残年を惜しまんや」
と割り切った心情が語られる。和田(2012)でも語られているように、『太平記』では仏教思想だけでなく儒教的徳治思想が語られていて、その一端が今節でも垣間見えよう。こうした点で、単に現実的・短期的な恩恵を求めて兵法書を求める貴族らに対し「愚か」であると断じているのだと考えられる。
それではまた、次回に。
・参考文献
岩波 世界人名大辞典「韓愈」、「韓湘子」の項。
和田琢磨『『太平記』「序」の機能』日本文学61巻7号、55-65頁、2012年。
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?