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自叙伝⑱そして仏門へ
「どうせ誰もいない」という虚無に陥ってしまった私はそれでも目の前の皆さんへの誠意は自分なりに精一杯尽くして1年間の連続講座をやりきり、相反する二つの世界観の拮抗の狭間で疲れ切ってしまいました。
やり切った消耗と虚無感とで「何もしたくない」という気持ちになりました。
そのことも「私の仕業でない」ということはわかっていたので、また何かをやりたい気持ちが湧きおこってきたらその時自然に物事がまた運び出すだろうと思い、自然に任せることにしました。
ここからしばらくは特に何も募集せずに、たまに入る単発コンサルだけを受けながら過ごしていました。
この時期は虚無感を消化しきれずに本当にやる気が起きず「積極的な活動はなにもしたくない」という気持ちが続きましたが、生活に問題があるわけではないから淡々と日々を暮らしました。
ネットや本の中には同じ体験をしたという人がいてもリアルにはいないわけで、このことを共有したくてもできる人がおらず、普通に生活できるけどなんか元気でないみたいなそんな感じでした。
どうにもできないと言いつつやっぱり何か突破口がないかとあがいて実は悟り系で有名な人のセッションを受けてみたりもしたのだけど、どのお方も私にはピンと来ずで、もう諦めるしかありませんでした。
そんな風に諦めて過ごしているとなんとなく時間薬というか、虚無感は自然と薄らいでいきました。
あの一瞥から2年が経っていました。
長かった~!!これは長かったです。
虚無感にしろ他の感情にしろなんにしろ、私にどうにかできることは何もなく、何かを知っていそうな人に相談しても駄目だし、もう諦めてほうっておいた、というよりはそうするほか手だてがありませんでした。
そうするとだんだんと「とは言え通常生活するうえで私という感覚が消えるわけでなし、実相はどうであろうとできることをやっていくしかない」という、至極当たり前のことを「思おうとする」のではなく「思える」ようになって来ました。
ただ何もかもをゆだねて抵抗せず普通に暮らすことが、結果的に虚無から抜け出すことに繋がりました。
虚無から脱却できたことで改めて今自分に言えることを発信してみようという気になり、新たにnoteでブログを始めることにしました。
そんな折り、どなたかが「本当に悟っているお坊さん」を紹介しているのが目に入りました。
そのお名前を見た瞬間「この人だ」という直感がありました。
でも「なんかすごそうなお坊さんだなぁ、お話し聞いてみたいなぁ」というぐらいの気軽な気持ちでオンライン禅会に参加しました。
それがよかったんだと思います、もう諦めたころに出会ったのがよかった。
もう諦めてたから何かの期待とかがなかったのが多分よかった。
2回目のオンライン禅会に参加したときのことでした。
老師との対話で二度目の一瞥体験(見性)が起きました。
ただしこの時はもう虚無に陥ることはありませんでした。
一度目の時と同じくそれをわかっている自己が残っている見性なのだけど、やはり確かに誰もいないのです。
目の前のPC画面に老師がいて扇子を動かしている様子が見えるんだけど、それは絵が動いているって感じで、それが「老師である」とかそれに呼応している「私」がいるということではない。
すべては、本当にすべては「自己がある」という思い込みで、何もかもが私たちが普段思っているようなものとは違う。
そのことをもう一度確認したような瞬間でした。
この時は一度目の時とは違い、「なんだよぉ~」って感じで笑うしかなかったです。
「心身脱落というけど、脱落する心身がそもそもないと思うのですが…」と言うと「その通りです」と老師がおっしゃった。
「というか、これって誰でもみんなそうじゃないですか?」とも言ってみたら「そうです」と。
ぴゃ~~!
生かされているとはよく言ったものです。
本当にその通りだからです。
私たちはイキって自分が生きてるぜ!と思ってるけど、そうではない。
「私がこの人生を生きている」という風に感じてしまえるほどの仕組みの中にいるということです。
そして老師の元への独参が始まりました。
老師とは初対面の時からとても話が合いました。
話が合うというのは私のようなものが九十翁の大悟徹底した老師に向かっておこがましいのは百も承知ですが、これまで出会うことのできなかった、私の身に起こったことが何かを本当の意味で知っていて、しかもその先へ安心して指導してもらえる人物に出会ったことは私にとって幸運なことでした。
初めて直接お会いして5時間、夢中で話し続けました。
今のこの瞬間がどれほど過不足のないものか、私たちが生きていることのすべてがいかに摩訶不思議であるか、そしてすべてのものが有りながら無く、そして無いながら有ることなど。
話が通じる人がいた!!という感じがして、誰とも共有できなかったことがたまっていたのか、何を言っているのか理解してもらえることがとても嬉しかったです。
そして得度する流れがすぐにきました。
老師を知ってから本当にあっという間の出来事でした。
すごいスピード結婚みたいな感じで(笑)
安名「景雲玄了(けいうんげんりょう)」を授かり、正式に仏門に入って禅の修行が始まりました。
あの生悟りの先へ行く道がついたということです。
あの時一人でお参り中にお寺で受けた啓示をすっかり忘れていたけど、本当にそうなった。
本当にすべては不思議なことです。
続く。