みーちゃんと松山へ(18歳)
「みーちゃんは,同い年の友達でねえ。 小学校ばあしか出ちょらんきよ、
字ぃも読めんで、わたしがずーっとおしえちゃりよったりしたがよ。 それで、みーちゃんは私のことが好きで好きでねえ。うんと、ようしてくれたがよ。」(母談)
当時、公立の女学校は、全国的に10校程度しかなく、四国では高知県に存在していた。菊が通ったのは、高知県立高知高等女学校で、 現在の高知丸の内高等学校である。
貧しいながらも、菊は教養を身につけることに価値を感じており、家族を助けながら女学校に通った。
母、初子は瓜実顔に目鼻立ちがしっかりした美女であった。次男努、三男幸雄、長女信子がその美貌を受け継ぎ、初子は、3人を特別かわいがった。残念ながら、初子は菊のことを「家族の中で一番ブス」と、堂々と言い放っていた。そんな風に言われていたにもかかわらず、夫に死なれ、か弱いながらも5人の子供達を育てていた母初子のことを、菊は大好きであった。教養を身に付け、自分が働くことで、少しでも家族の役に立ちたかったし、母に褒めてもらいたかった。
そんなわけて、女学校でも勉学に励んだ。
中でも数学で優秀な成績をあげ、 その後の自分の自信に繋がった。
このときの数学のセンスが身を助け、後、簿記の資格を取得し、帳面をつけるようになることで、事実上の経営者となる。
高知は空襲をうけたものの、高知全体が焼け野原になったわけではなく、繁華街はすぐに復興された。
女学校時代、働き先を転々とした後、高知の繁華街で事業を広げていた広末家でかわいがってもらっていた。
「あのとき、広末のところに嫁に行けちょったら、あんたは、今頃、広末涼子やったのに!」(母談)
(その面倒見てもらっていた人は広末涼子のおじいさんらしい!
勝手に言っていることなので、嘘かもしれない!)
教養を身に付け、お金を儲ける。これが菊の当時の戦略だった。
みーちゃんは、どちらかというと、自分でバリバリ働くというより、良いおうちにお嫁さんに行きたいと思っていた。
みんな、思い思いに、目標をもって、活き活きと働いていた。常に良いところを目指し、どんどん転職していったし、海外に職を求めて出ていく人も多かった。戦後の復興はこの貪欲さが あったからかもしれない。
「松山ですごい事業をやりゆうみたい」
と、みーちゃんが情報を持ってきた。その「すごい事業」は給料も良く、高知からたくさん人が流れているという。速く行かないと、 雇ってもらえないかもしれない。
広末さんによくしてもらって、恩もあったものの、夜逃げのように、菊は、みーちゃんと松山へ渡った。
みーちゃんは、その松山の事業の社長、要するに、、、やくざの親分さんの奥さんになった。
みーちゃんは、社長の奥さんの立場で菊を厚遇した。
確かに給料も良かったが、自腹の洋服代もかさむようになり、高知にいるときとあまり変わらない収入であった。
この時分に、菊は、初めて「ラブレター」をもらった。15か16のチンピラで、年下であり、断った。
「教養を身に付け、お金を稼ぐ。」
このポリシーを捨てなかった。
みーちゃんは、菊に、一人の台湾人を紹介した。
菊より15も上のおじさん!
15下のチンピラもいやだけど、15上の日本語もたどたどしいおじさんなんか絶対嫌!!
ということで、なんとなく避けていると、あんなに仲良しだったみーちゃんが菊につらくあたるようになった。
反動なのか、それとも仲良しと思っていたのは菊の一方的な勘違いだったのか、きつい言葉も投げかけられるようになった。
周りの従業員も菊を慰めて くれたりしていたものの、つらい職場となった。
もう、高知へ帰ろうか
と思っていた矢先、みーちゃんに紹介された台湾人のおじさんが、優しい言葉をかけてくれた。
「一緒に高知に帰ってあげよう、高知に仲間もいるから、高知で事業を立ち上げよう」
と。
もしかしたら、この人と一緒にいれば、高知で成功するかもしれない。
菊はその台湾人、黃 文龍 と一緒になることを決意した。