Keiko Yoshida
戦後、家族を養うため、自分の夢を実現するため、台湾人と一緒になり、家族や従業員のために尽くした母の語りをまとめました。
台湾に家庭を持っていた父が日本で私のお父さんになり、台湾に帰るまでの記憶を書き記しておきたいと思っています。
菊と15歳も離れていた文龍。菊が65歳のときに80歳になっていた。 パチンコ屋も大手が牛耳るようになって赤字が積もり、土地の名義だけ残して、人に貸していた。 文龍も年老いて、少し痴呆の症状も出てきた。 日本語で喋っていたのに、興奮してくると、台湾語になっていたりした。 急に暴れたりもするようになってきた。 まだまだ若々しく、龍園をバリバリ切り盛りしていた菊は、自分ばかり働かされているという不満もあって、ますます文龍を疎ましく 思うようになってきた。 この頃、不況に
愛媛で菊と出逢い、高知で事業を始めた文龍。 賭博から始めたが、商才に長けていた。 どうやればお金が増やせるか?友達とのネットワークから情報を得て、着実に土地を購入していった。 菊は 「お金ができたらすぐ土地になってしまう」 と不満をもらしていたが、文龍の読みは的確で、日本のインフレに従って、土地の値段はどんどん増えていき、それを売るだけで、次の 事業の元金をつくることができた。 文龍は、小学校位の教育までしか受けていなかったが、友達とのネットワークの他、新聞やニュースを
「高知に仲間がいる」「新しい事業を考えている」 松山で肩身の狭い思いをしているところに、こんな言葉をかけられ、高知にも帰れることもあって、菊は少し期待の気持ちを持った。 文龍が日本に帰化していなかったため、入籍できなかったものの、一緒に居れば、きっとよい生活ができると信じていた。 二人の住まいの財産といえば、机一つだけだった。頼りにしていた「仲間」も台湾語で喋り、本当にこれでよかったのかなという不安も あっ た。 文龍は、まず、サイコロを使った賭博を路上で始めた。
姉さん(信子おばちゃん)はほんまに美人でねえ、けんど、美人って大変で、それを保つのにいっつも顔いじりよったわ。 あたしらー、なんちゃーせんかったけんどねえ。 姉さんが好きな人ができてねえ。 こうちゃん(私の従兄)のお父さんよ。 ほんで、お母さんが「見てこい」ゆうきよねえ。 わたしも小さいからようわからんし「はいはい!」ゆうて、友達つれて、後をつけていったわ。. 友達は「男前や」ゆうたけど、私はそんなに男前やと思わんかった。 家に帰ってお母さんに 「男とあいよっ
「みーちゃんは,同い年の友達でねえ。 小学校ばあしか出ちょらんきよ、 字ぃも読めんで、わたしがずーっとおしえちゃりよったりしたがよ。 それで、みーちゃんは私のことが好きで好きでねえ。うんと、ようしてくれたがよ。」(母談) 当時、公立の女学校は、全国的に10校程度しかなく、四国では高知県に存在していた。菊が通ったのは、高知県立高知高等女学校で、 現在の高知丸の内高等学校である。 貧しいながらも、菊は教養を身につけることに価値を感じており、家族を助けながら女学校に通った。
昭和六年(西暦1931年)生まれ。 太平洋戦争、南海地震、愛媛への出稼ぎを経て、15歳年上の台湾人と結婚し、机一つから商売 を始め、貪欲に店を切り盛りし、昭和、平成、令和と駆け抜けた母、菊(仮名)の生涯を綴っておきます。 高知城の西側、井口町の近く、江の口川支流の近く、 長男一男(仮名)、次男努(仮名)、長女信子(仮名)、それに弟(幸雄)との5人兄弟姉妹、それに、少し病弱な母、初子(仮名)と6人の家族で、 ムードメイカーな次女として育った。 父親は菊が3歳の時に亡くな
台湾人の父と、日本人の母の記憶を綴りたいと思います。 母の語り、私の経験したこと、など。 台湾に家庭を持っていた父が最後に日本から台湾に逃げた時、日本に残された娘達はどこを頼ればよかったか?渉外交渉のできる行政書士さんに助けて頂いた経験についても、今後綴っていきたいと思います。