大切なものを失う時
自分の意思ではなく
他人の言動で自分の大切なものを失うことは、自分の意思の弱さが原因で起こることではない。
私は
「自分がどうしたいか」
「あなたはどう思うのか」
と言う自我の尊重を無視した選択をせざるを得ない人生でした。
他人のエゴによって自分の人生や自由を閉じざるを得ない状況が沢山沢山ありました。
幼少期から最近まで
自分の意思で友人を選ぶことが出来ませんでした。
「あなたはどう思う?」
と言うことを聞かれたことがありませんでした。
だから有無を云わさず否定と言うものを受け入れなくてはいけない辛く哀しい人生でした。
文面だけ見たら
深窓の令嬢が自分の意思と言うものを束縛されるかごの中の鳥のようでしょうか
震災の以前に
「幸福の王子」と言うドラマを見ました。
異国の王子は
民に求められるまま
お金や住まい食事を与えました
民は増長し
「もっと欲しいもっと欲しい」と
王子の身ぐるみ全てを奪い取りました。
王子は銅像になり
自らの鉛で出来た心臓やガラスの瞳までも与えました。
「ツバメさん、ツバメさん
僕の心臓は何処へ行ってしまったの?
僕はとても寒い」
ツバメは涙を流しながら一生懸命王子のために小さな翼を駆使して王子の大切なものが何処へ行ったのか探しました。
「ちゃんと必要なところに届いてますよ」
亡くなりかけた幼い娘のところにちゃんと王子の心臓は届いてました。
「ツバメさん、自分ではわからないんだ、良かった…ありがとう」
やがて王子のことを民は忘れていきました。
純粋で優しい王子は
本当はどんな気持ちだったのでしょう…
人の心情と言うものは必ずしも事実とは比例していない
私も時々思います
「あの時あんなことをした人たちは、その史実を思い出して反芻して自分のエゴや怠慢さを反省したりしないんだろうなぁ」
驚いた出来事がありました
全てを失う原因を作り撒いた本人から、術後幾度となくハガキが送られて来ました。
「元気?
これからも仲良くしようね」
数年後
彼女は強引な形で得た結婚と言う名の幸せを旦那の孤独死で失いました。
多分彼女は旦那の死と自分がして来たワガママをリンクすることは生涯ないのでしょう…
幸福の王子は幸福だったのか
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