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超越論的主観性や志向性とは、実際の体験・経験の改変ではないのか
『デカルト的省察』第三省察を読んでいるところです。第二省察読んで、また第一省察読み直したり・・・行ったり来たりしながらじっくり読み込もうと思います。
第二省察の分析はある程度まとめてはいますが、また読み直してからきちんと書き直して公開します。
おおざっぱに言えば以下のような論点です(他にもありますが)。
1.現れる経験を、存在の信念からいったん切り離す戦略そのものに問題がある、それは恣意的な体験の改変ではないのか。「”端的に”家が存在していると思うこと」を差し控えようというのは、実際の具体的経験を恣意的に改変することにつながってしまうのではないか。
2.「反省」が直進的に把握している体験と異なるというのであれば、私たちが物ごとを実際に認識する体験・経験とは全く異なる、別のものを見ているのではないか。つまりこれも実際の体験の改変ではないか。
3.フッサールの言う「明証」という考え方にブレがあるのではないか。
3については、これまでにも指摘してきました。
『これが現象学だ』検証
http://miya.aki.gs/miya/genshogaku3.pdf
明証性はエビデンスではない~「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」分析~
http://miya.aki.gs/miya/miya_report6.pdf
・・・とりあえず第三省察までちゃんと読んでから第二省察の分析をしようと思います。