条件文「AならばB」は命題ではない?
『数学にとって証明とはなにか』(瀬山士郎著、講談社)を読んで、もともとあった条件文への違和感がさらに強まってしまったので、本稿でその問題点をまとめてみました。論理学の専門家の方々からのご意見もいただければ幸いです。
(※ 2022年5月3日に一部修正しました)
※ PDFファイルでもご覧いただけます。
http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf
1.条件文は命題ではない?
・・・上記の瀬山氏による説明は、((¬A∨B)∧A)→Bであること、そして¬Aであっても¬A∨Bは真であるということを説明しているだけ、そして(¬A∨B)≡(A→B)であるとただ説明しているだけであって、
(¬A∨B)≡(A→B)
とわざわざ”設定”することが「数学での約束」の「理由」(瀬山著『数学にとって証明とはなにか』78ページ)である根拠づけには全くなっていないように思われる。
否定・連言・選言が、私たちの日常的言語感覚とほぼ合致している一方(選言に関しては、両立的選言・排反的選言双方に受け取れるが:野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、27ページより)、条件文に関しては違和感を抱く人も多いのではないだろうか。特に、A→Bにおいて、Aが偽の場合である。
一般的に条件文の真理値は次のようなものになっている。
A B A→B
真 真 真
真 偽 偽
偽 真 真
偽 偽 真
この真理表においてならば、もちろん(¬A∨B)≡(A→B)は成立する。
しかし、私たちの日常的言語感覚だと常識的に次のようになるのではなかろうか。
A B A→B
真 真 真
真 偽 偽
偽 真 偽? 分からない?
偽 偽 真? 分からない?
Aが偽でBも偽であればA→Bは間違いではない。しかしA→Bが真である保証もない。「晴れたならば遊びに行く」(A→B)場合、「晴れたならば遊びに行く」が「晴れなかったら遊びに行かない」を含意するものなのか、しないものなのか、そのコンテクストをどのように共有するかどうかで真偽設定が左右されうる。晴れなかったのに遊びに行った場合も同様である。
さらに言えば「晴れなかったら遊びに行かない」を含意するとしても、結局晴れなかったけどもし晴れたならば遊びに行ったのか・・・晴れなかったのだから証明しようがない、そういう受け取り方さえできよう。つまり条件文A→Bは私たちの日常的言語感覚に沿って考えた場合、(あやふやさがあるため)真理値を確定できない可能性がある、要するに「命題」と言えないということなのだ。
古典論理における条件文の真理値設定は、野矢氏『論理学』における説明を見る限り(野矢著『論理学』、29~31ページ)、論理学の構文ワールドを成立させるために無理やり「二値原理」を適用し、他の論理式との整合性を考慮しながら(同値の真理値とかぶらないようにとか、あるいは対偶の真理値と整合性をもたせるとか)、かなり作為的に設定されたものなのである。久木田氏は、
・・・と説明されている。
そのため、A∧B→(A→B)が論理学的にはトートロジーであるにもかかわらず、現実世界における推論と齟齬を来してしまうという現象がもたらされることがある(瀬山著『数学にとって証明とはなにか』100~101ページ)。このような場合、無理やり設定した論理学的論理は、いったい何のためのものなのであろうか? (ひょっとして何か別の次元で効用があるのかもしれないが)
さらに言えば、条件文には様々な条件が前提となっているが、それらが明確に定義されることなく、その都度コンテクストを読んで判断するような状況になっているようにも思われるのである。たとえば時間性の問題(野矢著『論理学』31ページ)、因果関係の問題、あるいはAとBとの間の具体的関係性の問題など(これに関しては様々な研究がなされているようだ)。
私個人の印象であるが、論理学という学問はアプリオリというより、コンテクスト理解を求めるものであるように思える。(そもそもアプリオリというものが実際にあるのかという問題もあるのだが)
2.A→Bが真でもBが真だとは限らない(矛盾から任意の命題が無条件に導出されるのか?)
当然のことであるが、論理学において前件が偽ならばA→Bが真になってしまうため、A→Bが真でもBが真であるとは限らない。瀬山氏もこのことについては明確に指摘されている(瀬山著『数学にとって証明とはなにか』79ページ)。
しかし一方で、瀬山氏はA∧(¬A)→Pという論理式について、
そして、
・・・と説明されているが、果たしてそうであろうか? Pは実際に証明されているであろうか? 前件A∧(¬A)が常に偽(というか矛盾)であるということは、A∧(¬A)→Pが常に真であったとしても、後件Pが常に真であることを保証などしていない。つまり「Pである」と分離して命題Pの真偽を論じることは不可能であるということなのだ。
もちろんであるが、このことは
・・・を否定するものではない。さらに(論理学における演繹に関して)、
・・・は最初にAを仮定した上でBが導出されているので、関係性が見出されている(ように思われる)。とくに問題はないように思える。最初にAを仮定する時点でAが偽であると想定されてなどいないと思うのだが(どうだろうか? 論理学においてこのあたりのニュアンスもあいまいにされているような気がするのだが)。
また、
・・・に関しても、前件が「肯定」されているのでBを導出しても問題はない。ここでも命題Aは真であるという前提で話が進められているはずである。前件肯定なのだから。
つまり、命題Bを単独で導出するためには前件が肯定されている必要がある。それゆえに矛盾から命題Pが無条件に導出されると考えるのは、どう考えてみてもおかしな話ではないだろうか。
前原氏は『記号論理入門』において
・・・と説明されているが、どうにも納得できないのである。もちろん論理学的論理において(B→⋏)→(B→A)は“正しい”とされるものなのであろう。私は⋏を「命題」としB→⋏と表現する前原氏の手法には違和感を抱いてしまうのであるが(前原著『記号論理入門』54ページ)。前原氏は⋏を<矛盾>としているが、真理値分析においては偽(false)として扱っている(前原著『記号論理入門』53ページ・61ページ)。偽は偽、矛盾は矛盾、命題ではないと思うのだが・・・
そして論理学を離れて普通に考えれば、Bが矛盾(それとも偽?)ならば任意の命題が導かれるのではなく「何も分からない」というのが本当のところではなかろうか。
もちろん論理学に基づいて考えたとしても命題Aそのものが真である保証はなく、命題Aそのものが“導かれた”わけでもないのである。B→Aが真なのにBが真になることはなく、Aの真偽が明らかになることはないというのは、いったいどんなナンセンスなのだろうか? そんな状況でB→Aが正しい・真であると言える根拠は何なのであろうか?
<引用・参考文献>
『数学にとって証明とはなにか』(瀬山士郎著、講談社、2020年)
『論理学』(野矢茂樹著、東京大学出版会、2012年)
『記号論理入門』(前原昭二著、日本評論社、2021年)
条件文の論理(久木田水生著、2012年度)
http://www.is.nagoya-u.ac.jp/dep-ss/phil/kukita/others/Logic-of-Conditionals.pdf
(まだ全部読んでいないので、この文献で扱われている論点をすべて理解しているわけではありません。これからの課題といたします。)
哲学演習「論理学入門」補論(池田真治著、2016年)
(以下のURLからダウンロードできます)
https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/233038/30d0965a2f00c55beadb92840b81bf9c?frame_id=508325
(実質含意のパラドクス、厳密含意のパラドクスなどについて。)