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正確な情報伝達の問題と対象を「捉える」こととの混同

 野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析の続きです。

これまでの記事は、以下のマガジン

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note

をご覧ください。なお、本文中の引用はすべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』筑摩書房、2006年からのものです。

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 先ほどの文章(内的・外的の問題ではなく、論理を含む言語表現の有意味性の問題より)をもう一度見てみよう。

二・〇一二三一改 対象を捉えるために、たしかに私はその対象の性質を捉える必要はない。しかし、その対象のもつ論理形式のすべてを捉えなければならない。

(野矢、53ページ)

野矢氏によると、「対象を捉える」ということは”ふつうの意味で「知識をもつ」ということではない”(野矢、54ページ)。知識をもつとは、上記「対象の性質を捉える」ということであろう。トマトが赤いとかそういうことである(野矢、54ページの説明より)。

 そうしたさまざまな知識をもつ前提として、それがどの対象についての知識なのかという了解が必要となる。それが、ここで言われる「対象を捉える」ということにほかならない。「冷たいのか冷たくないのか」と問われているのはどれなのか。冷たいのか冷たくないのかを調べる前に、まずその調べるべき対象を把握することが問題となる。

(野矢、54ページ)

・・・ここまで来れば「捉える」とは何か明白なのではなかろうか。”対象を捉えることは性質について知ることよりも「以前に」ある”(野矢、55ページ)。それを言葉だけで説明するのは少し厄介である。しかし私たちは既にトマト、人間、犬、猫という言葉が何を指しているのか、人間の佐藤さん、猫のミケ(もしそういう名前の猫が実際にいるのであれば)が何を指すのか、既に知っている。
 話がややこしくならないように、単純な例で説明してみよう。下の風景写真の中で、「石」とはどれか聞かれれば、黄色の線で囲まれた物体だと思うであろう。外的・内的性質、論理形式などいちいち考えずとも、それが石であると思う。論理形式よりも「以前に」既に石を捉えてしまっているのである。
 そして私たちは、初めて「石」というものを知った経緯など覚えてはいないと思う。その上で「石」であると「捉える」ことができる理由をいかにして知ることができるであろうか?・・・結局はその石を観察することで理由を後付けするしかないのである。野矢氏の言われる「論理形式」とはまさにその「後付け」の理由なのである。外的性質であれ内的性質(=論理形式)であれ、その対象を「捉えている」からこそ見いだせるものなのである。


(宮崎県児湯郡都農町にて)

石にはいろいろあるから色や形などの性質で説明しにくいのだが・・・実際にそこにいれば石の硬さやら材質やらそういったことを吟味することもできるであろう。いずれにせよ外的性質がその対象を分析することで見いだせるものであるとは言えよう。
 一方、野矢氏(ウィトゲンシュタイン)の言う内的性質はどうであろうか? 「色と形をもつ」とか「なんらかの時間空間的位置をもつ」とかいうのも、目の前の石が実際に(灰色とか楕円形とかいった)色や形を有している、つまり何らかの外的性質を有しているという事実、そして今日2022年11月21日午前10時にここに私がいてその目の前にその石があるという事実から導かれているのではなかろうか。つまり内的性質はその物を既に捉えているという事実、そしてそれは外的性質を有しているという事実から導かれているとも言える。つまり野矢氏の説明は順番が逆なのだ。
 それを「石」だと判断するためには「石」というものを(もちろん「石」という言葉も)あらかじめ知っている必要がある、という因果的推論・判断はできる。普通に考えればもちろんそうなのであるが、これもまずはそこにあるものを「石だ」と判断してしまった事実が先にあって、その後に(過去のものと思われる経験と関連づけることで)後付けでなされる説明であることに変わりはない。そしてそこに「石」としての同一性をいかに見出したのか・・・と分析することも当然、既に捉えている目の前の「石」と、図鑑などに掲載されている「石」あるいは記憶にある別の「石」などを分析・比較し後付け的に因果的説明を加えるだけのことである。
 あるいは珍しい花の写真を持って出かけ、その写真と同じ花を探すような場合があったとする。そしてついにその花と同じものを見つける。もちろんその花の写真を持っているからこそそこで実際の花を見つけることができるのであるが・・・ではそこで「同じ」花だと思った理由は何だろうか?と考えてみれば、これもその対象物を観察した上で見いだされ、これも後付け的に因果的説明がなされるのであろう。仮にその花の一部分が非常に特徴的な色や形状をしていて印象に残っており、それゆえに現場で発見することができたと感じている場合、確かにそうなのであろうが、ではその色や形状における同一性とは・・・とさらに吟味すれば、究極的には「同じ」と思ったから「同じ」なのだという論理形式などでは説明できないところへ行きついてしまうのである。
 いずれにせよ対象を「捉える」というのはその「捉える」事実が先にあり、内的・外的性質というものは、その捉えられた対象を観察することで見いだされるものなのである。「理由」とは後付けでなされるものなのである。理由が先にあるのではない。
 野矢氏は、対象を捉えるためには論理形式とともに”「これ」という指差し”(野矢、58ページ他)が必要であるとしているが・・・少し論点がずれていないだろうか? これは他者に、例えばそこにあるものが「トマト」であると知らせる・教える場合に必要な行為なのではないだろうか。自らは既にそれが「トマト」であることを知っている。そしてそれを知らない子どもに教える場合、それを指さして「それはトマト」と教えたりするであろう。
 私自身が「トマト」を捉えるために、わざわざ「指差し」などする必要はない。あくまで他者とのコミュニケーションにおいて「指差し」が必要になって来ることがあるのだ。野矢氏はここを混同してしまっている。
 そして私たちのコミュニケーションはしばしば誤解を招くことがある。

トマトの方を指差して、「この物」と言うとき、もしかしたらただトマトのヘタを指示しているのかもしれない。たとえば列車の先頭車両を指差して「この物」と言うとき、それはただ先頭車両を差しているのかそれとも列車全体を差しているのか、あるいは前面部に附属している部品のどれかを差しているのか、分からない。

(野矢、58~59ページ)

人にそれ取って持ってきて、と頼んだが近くにある別のものをとってきて「それじゃないよ」・・・そういった経験はほとんどの人にあるのではないだろうか。
 一方で「指差し」あるいは「それ」「これ」という説明だけでうまく伝わることもあるだろう。トマトの方を指差して「この物」と言われたら、それがヘタのことを差していると思う人は実際ごくまれだと思うのだが。
 そしてこのコミュニケーションが上手くいくか失敗するかの要因など、その時その時でいろいろなものが考えられうるし、それを”原理的”に単一の要因で説明しようとすること自体無理なのではなかろうか。
 ・・・話を戻すが、指差しのみでうまく伝わらなかったと分かった場合(誤解したまま放置されることも多かろうが)、さらにどういう情報を相手に与えるであろうか? トマトだったら「その赤いの」とか追加情報を与えるであろう。これは明らかに野矢氏・ウィトゲンシュタインの言う「外的性質」である。そもそも論理形式をどのようにして相手に伝えろというのであろうか?


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