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「超越論的現象学的な自我」は幻想~『デカルト的省察』第一省察「超越論的な我への道」の批判的分析
「超越論的現象学的な自我」は幻想
~『デカルト的省察』第一省察「超越論的な我への道」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report45.pdf
書きました! 第二省察以降もじっくり読んでいきたいです。
(※ その他のレポートも、経験論研究所:レポート一覧 のページにあります)
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本稿は、フッサール著『デカルト的省察』(浜渦辰二訳、岩波書店、2001年)の第一省察「超越論的な我への道」(26~58ページ)の批判的分析である。その内容は目次のタイトルを見ていただければ明確に理解できるようにしてある。
結局のところ、実体・生物(人間)としての「私」以外の「我」を見つけることはできないし、「純粋な生」そのものを見つけることもできない。「世界」を経験しているわけでもないし「純粋な生」を経験しているわけでもない。
それらは皆、具体的・個別的経験から因果的に導かれた客観的認識、あるいはフッサールの”想像”の産物なのである。超越論的現象学的な自我という「場所」「領土」を想定してはならない。ないものを前提してしまっているからだ。
ただ具体的経験(とりあえず経験と呼ばざるをえないのであるが)が現れたり消えたりしているだけであって、それが現れる「場」というものは後付けで想定されるものにすぎないのである。
なお、現象学に関する私の見解に関しては、
『これが現象学だ』検証
http://miya.aki.gs/miya/genshogaku3.pdf
・・・で公開しているので参考にしていただければ幸いである。志向性批判、時間論や論理の問題についても論じている。
<目次>
1.現象学は想像的心理学(2)
2.自己・我とは”超越的”な、実体(生物・人間)としての「私」以外にない(4)
3.”生き生きとした自己の現在”など経験していない(6)
<引用文献>(8)