「操作」にも対象がある (論理はア・プリオリではない)

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析、8章「論理はア・プリオリである」から再開です。論理がア・プリオリだという考え方も、哲学における重大な間違いの一つです。

過去の記事は以下のマガジンでどうぞ。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note

引用部分は説明がないものに関しては、すべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)からのものです。

********************


 論理語が何かを示そうとすれば結局具体的事例を引き合いに出すしかないことは既に(私が)述べてきた。また拙著、

A→Bが「正しい」とはどういうことなのか ~真理(値)表とは何なのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report40.pdf

において、

A→B が「正しい」とはいったいどういうことなのだろうか? A∨B が「正しい」とは、A または B のどちらか(あるいは両方)が真である、だけどどちらが正しいのかまでは分からない、という「意味」を持っている。A∧B が「正しい」とは A も B も真だという「意味」である。

(宮国、1ページ)

と説明している。論理語と言えどもそれに対応する何らかの対象、つまり事態や事実というものがあるものなのだ。
 論理は具体的事実から抽出されるものであって、ア・プリオリなものでは決してない。
 野矢氏は

論理語は名ではない。

(野矢、167ページ)

とし、論理語を、

対象を表す名ではなく、要素命題に対する、あるいは要素命題の真理領域に対する「操作」として捉える。

(野矢、167ページ)

しかし、操作というプロセスそれ自体が、具体的な事態・事実として現れているのである。例えば「走る」という言葉は、一つの対象物(車や人や動物など)が走るという事実・事態を指し 示すものである。「操作する」も同じことである。
 言葉というものはそれが指し示す何らかの具体的事象、事物があってこそ意味を持つのだ(ナンセンスではないということ)。

 世界が現実にどうなっているかを知る前に、その探求が可能であるためにも、われわれは論理を把握していなければならない。そしてこの論理のア・プリオリ性は、まさに論理語が操作であることによるのである。

(野矢、179ページ)

こういった見解が転倒したものであることは、これまでに(私が)繰り返し説明してきた。論理は現実のあり方、事実関係から導かれ、根拠づけられ、その「正しさ」を確かめられるものなのである。
  「世界が現実にどうなっているかを知」っているからこそ、そこから論理を導き出すことができるし、論理の正しさを確かめることができるのである。

 どのような要素命題が与えられようとも、その真理領域を反転するという否定の操作、共通部分を取り出すという「かつ」の操作、合併する「または」の操作、そうした操作の働きは一定のものとして定まっている。すなわち、操作はア・プリオリなのである。この操作のア・プリオリ性が、論理のア・プリオリ性にほかならない。

(野矢、180ページ)

この野矢氏の説明にもかかわらず、「または」「かつ」「ならば」といった論理語が導き出す正誤関係は、論理学が示すような一律なものではなく、それが取り扱う(野矢氏の言われる)”定義域”(野矢、174ページ他)によって変化しうるものなのである。そのあたりのことについては、以下の拙著で具体的に説明している。

命題を(論理学的)トートロジーと決めつけた上でA→Bの真理値を逆算するのは正当か?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report39.pdf

選言の真偽とはいったい何なのか:(¬A∨B)≡(A→B)に根拠はあるのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report38.pdf

設定状況により「または」「かつ」「ならば」を伴う命題の真偽は様々な値をとりうるのであって、論理学的トートロジーというものが幻想なのである。

たとえば「1を足す」という操作は、出発点として「0」が与えられたならば、その操作を反復することによって自然数列を生み出すことができる。数の「全体」を見通すことはできなくても、このようにして数の「体系」を見通すことはできる。こうして『論考』は、論理を操作によって張られる体系として見通しえたのである。

(野矢、181ページ)

・・・この説明に関してよくよく、“具体的に”考えてみてほしい。「1を足す」という“操作”とはいったい何なのだろうか? 例えばそこには何も置いてない。つまり0である。そこに小石を1個持ってくる。その状態を「1」と(いう名で)呼んでいる。そこにもう一つ小石を加える。その状態を「2」と(いう名で)呼んでいるのである。1、2、3、4・・・という数字それぞれに対応する意味としての対象(物)がありうる。そして「加える」という操作にもそれに対応する事象・状況が実際にあるのだと言える。
 拙著、

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

からの引用である。

一方、「1恒河沙」に1を足すと「1恒河沙1」に本当になるのか? 私たちはそれを示すために具体的事物を用意したりイメージしたりすることはできない。つまりそれは「仮説」なのだ(もちろん具体的事物で示すことができれば実証されたことになる)。「ある数に1を足すと1増える」というのは具体的事物により指し示すことのできる経験則(つまり経験からの帰納)の“演繹”なのである。ひょっとして数が果てしなく大きくなると数はそれ以上増えないという世界が広がっている可能性さえあるのだ。私たちはそれを知らないのだから。つまり「1恒河沙+1=1恒河沙」である可能性さえある、ということなのである。いずれにせよ、具体的事物、経験として認められるまでは、それはあくまでも「仮説」であるにすぎないのだ。

(宮国、5ページ)

 野矢氏は、”「二つに折る」という操作”(野矢、176ページ)についても”「1を足す」という操作“(野矢、176ページ)と同様だとしているが、新聞紙やはがきを「二つに折る」という操作も、具体的事実・事態として現れる事柄であるし、紙のサイズや厚さを考えるといつかは二つに折ることができなくなる時がやって来る。これらの事象を”具体的に”考えれば無限を構成しうるものではないことは明らかである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?