「操作」にも対象がある (論理はア・プリオリではない)
野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析、8章「論理はア・プリオリである」から再開です。論理がア・プリオリだという考え方も、哲学における重大な間違いの一つです。
過去の記事は以下のマガジンでどうぞ。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note
引用部分は説明がないものに関しては、すべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)からのものです。
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論理語が何かを示そうとすれば結局具体的事例を引き合いに出すしかないことは既に(私が)述べてきた。また拙著、
A→Bが「正しい」とはどういうことなのか ~真理(値)表とは何なのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report40.pdf
において、
と説明している。論理語と言えどもそれに対応する何らかの対象、つまり事態や事実というものがあるものなのだ。
論理は具体的事実から抽出されるものであって、ア・プリオリなものでは決してない。
野矢氏は
とし、論理語を、
しかし、操作というプロセスそれ自体が、具体的な事態・事実として現れているのである。例えば「走る」という言葉は、一つの対象物(車や人や動物など)が走るという事実・事態を指し 示すものである。「操作する」も同じことである。
言葉というものはそれが指し示す何らかの具体的事象、事物があってこそ意味を持つのだ(ナンセンスではないということ)。
こういった見解が転倒したものであることは、これまでに(私が)繰り返し説明してきた。論理は現実のあり方、事実関係から導かれ、根拠づけられ、その「正しさ」を確かめられるものなのである。
「世界が現実にどうなっているかを知」っているからこそ、そこから論理を導き出すことができるし、論理の正しさを確かめることができるのである。
この野矢氏の説明にもかかわらず、「または」「かつ」「ならば」といった論理語が導き出す正誤関係は、論理学が示すような一律なものではなく、それが取り扱う(野矢氏の言われる)”定義域”(野矢、174ページ他)によって変化しうるものなのである。そのあたりのことについては、以下の拙著で具体的に説明している。
命題を(論理学的)トートロジーと決めつけた上でA→Bの真理値を逆算するのは正当か?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report39.pdf
選言の真偽とはいったい何なのか:(¬A∨B)≡(A→B)に根拠はあるのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report38.pdf
設定状況により「または」「かつ」「ならば」を伴う命題の真偽は様々な値をとりうるのであって、論理学的トートロジーというものが幻想なのである。
・・・この説明に関してよくよく、“具体的に”考えてみてほしい。「1を足す」という“操作”とはいったい何なのだろうか? 例えばそこには何も置いてない。つまり0である。そこに小石を1個持ってくる。その状態を「1」と(いう名で)呼んでいる。そこにもう一つ小石を加える。その状態を「2」と(いう名で)呼んでいるのである。1、2、3、4・・・という数字それぞれに対応する意味としての対象(物)がありうる。そして「加える」という操作にもそれに対応する事象・状況が実際にあるのだと言える。
拙著、
“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf
からの引用である。
野矢氏は、”「二つに折る」という操作”(野矢、176ページ)についても”「1を足す」という操作“(野矢、176ページ)と同様だとしているが、新聞紙やはがきを「二つに折る」という操作も、具体的事実・事態として現れる事柄であるし、紙のサイズや厚さを考えるといつかは二つに折ることができなくなる時がやって来る。これらの事象を”具体的に”考えれば無限を構成しうるものではないことは明らかである。
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