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西田自身が「思想」という「メガネ」をはずせないでいるのではないか

若松英輔著『100分de名著 善の研究 西田幾多郎』(NHKテキスト2019年10月)はさらっと読んだだけですが、う~ん、これは純粋経験(=直接経験)の事実というより、(若松氏自身の言われる)「メガネ」をつけたまま世界を見ているものだと言わざるをえないでしょう・・・

知らないうちに世界を自分の「思想」という「メガネ」を通して眺める

(若松氏、86ページ)

・・・というのはまさに西田自身の思索そのものではないかと思いますし、それに従う若松氏の説明についても、経験其儘の事実から逸脱してしまっています。

哲学は、宗教を語ることによって帰結する、と西田はいいます。

(若松氏、26ページ)

・・・という結論が先にあって、無理やりに理屈をつなげている印象を受けてしまいます。目的や先入観が先にあってはならないと思うのです。あくまで具体的な直接経験の事実を純粋にピュアに見ていく、その上で上記のような帰結となればそういうことになるのでしょうが・・・西田の説明は断定のみで直接経験(=純粋経験)による根拠づけがなされていない部分があまりに多すぎるのです。

西田は「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と述べています。
 ここでの「経験」は「人類の経験」です。西田は、「個」の問題を真剣に考えたいのなら、私たちは世界を「人類」の眼、普遍の眼で見なくてはならない、と述べています。

(若松氏、13ページ)

「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」という説明はもっともですが、それが「人類の経験」であるというのは論理の飛躍です。そうではなく、

経験から私や他者が導かれる、
経験によって(因果的に)根拠づけられている

というのが実際のところです。純粋経験が「人類の経験」という前提は具体的な直接経験そのものから導きだすことはできません。この論理の飛躍をただ”信仰”しているのが西田信者であると言えるでしょう。 
 そもそも”普遍”というものは、多くの人々による共通認識のことです。つまり私や他者の存在を認めた上で成立するもの、純粋経験を因果的に構築した上で成立する世界におけるものなのです(要するに”思慮分別”の産物)。
 純粋経験から「私」というものが因果的に導かれ根拠づけられている、その上でその経験が「私」によって経験されているものだと捉えられている、その前提があって(他者の存在とともに)「普遍性」というものが認識されている、(ある事柄については)「私」と「他者」とが同じように認識していると確信する・・・つまり「人類の経験」を純粋経験の前提として認めるのは考え方がひっくり返っていると言わざるをえないのです。

 普遍性、あるいは共通認識が成立しているという確信は、他者との会話や様々なメディアを通じて得られる情報から獲得できるものです。他者との会話や本を読んだりテレビを見たりする行為も、純粋経験(直接経験)であり、そこから自らの認識と他者の認識が共通していると確信する一連のプロセスも、究極的には自らの純粋経験へと還元できます。普遍性の認識も、究極的には私個人における純粋経験として現れる(しかない)、そういう説明ならば可能です。

 一方、自らの具体的経験において他者とは共有できない、共感できない、そういったものもあります。別に普遍性を持たずとも、それは純粋経験であると言えます。

 つまり純粋経験というものは普遍性を前提とするものではなく、普遍性とは、あくまで純粋経験を因果的に構築した世界における特定の状況を指すものなのです。


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