現代写真マガジン「POST/PHOTOLOGY」#0003/ヴォルフガング・ティルマンス《MOMENTS OF LIFE》
▷POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast 北桂樹
ヴォルフガング・ティルマンス《MOMENTS OF LIFE》
現在エスパス ルイ・ヴィトン東京にて開催中のヴォルフガング・ティルマンス《MOMENTS OF LIFE》について。
https://jp.louisvuitton.com/jpn-jp/magazine/articles/wolfgang-tillmans-espace-louis-vuitton-tokyo
本展はファウンデーション・ルイ・ヴィトンが2014年にコレクションしたティルマンスの作品のうち、21点の作品を大型の可動壁2枚の表裏両面とギャラリー内の壁の一部という5つの壁に展示をした展覧会となっていた。さらには、2014年キュレーターがインタビューをした動画2種類が見れるようになっている。
ティルマンス作品の特徴は、その展示方法に表れる。印画紙を直接そのままダブルクリップでとめただけのもの、額装したもの、大小さまざまなサイズの写真が、壁全体のあちこちに散りばめられたようにして展示される。ティルマンスの影響を受け、この展示スタイルを真似するアーティストも多い。今回、2枚の可動壁の高さもさることながら、エスパス・ルイ・ヴィトン東京は天井が高く筆者としては、ティルマンス作品の「展示」をこれまで感じたことがないほどティルマンスらしい展示体験として鑑賞することができたと感じた。
写真というオブジェクト
この展示の凄さを思い知るに至ったのは今回のインタビューの動画を見てからであった。
これは、ティルマンスのことばなのだが彼は、写真というものを単にイメージとしては捉えておらず「イメージをオブジェクト化したものである」と考えている。だからこそ、「写真」は空間に影響をし、鑑賞者との間に共感を生むのだということになり、いわゆる「ティルマンス的」な展示ということになる。
このことが何を示すのか?
1970年代、写真が芸術と接近してきた時、写真の力は「日常のありふれたものを特別なものにする」ということであった。つまり、「特別なものを特別なものとしていた」アンセル・アダムスのような風景写真はスティーブン・ショアやウイリアム・エグルストンのようなアーティストによって更新された。それは、日常の何でものないものを写真によってイメージの中で特別なものとしてオブジェクト化するということであり、風景の再発見がまさにニュートポグラフィックスと言われた写真のムーブメントの本質であった。おそらくこのことは、同時代のアンディ・ウォーホルの実践などの影響もあったのではと考える。(スティーヴン・ショアはウォーホルのファクトリーにいたし、エグルストンは1976年のMoMA展のころウォーホルのサークルと仲良くなったとも言われている。)
デジタル化・ニューメディア化された現代においても、いまだ「日常のありふれたものを特別なものにする」という写真のオブジェクト化の魔力は健在である。しかし、それだけで現代を代表するようなアーティストにはならない。というのが現実でもある。
80年代にi-Dでファッション・フォトグラファーとして活躍したティルマンスはそれまでのファッション写真とは一線を画す表現によって人気を博していた。ブランド品の広告写真であっても、それらを普通の若者の日常生活のさりげないイメージの中に紛れ込ませ提示していたのである。ブランドロゴがなければ若者の日常にしか見えないように、ブランド品はイメージ内の色面を構成する一つの要素となっていました。しかしそれが逆に時代のリアリティとして刺さり、受け止められたのであった。
今回の展示作品のモチーフは植物、宿泊先などの部屋の窓辺の写真、ティルマンスのスタジオ、パーティーのあと荒れた部屋、男性の身体の一部やその影、若者の日常風景などなど。さまざまな日常がティルマンスによって切り取られている。これらの写真について、ティルマンスは「私が世界をどう見ているか」と述べていた。さらに、芸術の世界において、イメージの制作はずっと同じように風景画、肖像画、静物画といった形式を踏襲してきており、自分にできることは過去や未来を見せることではなく「この時代」について語ってみせることだと言い切る。「この時代」は細部、きているワードローブなどに顕れるが、それだけじゃないものが普遍的なこととして時代を超えて受け入れられると言っていた。
誤解を承知で言うならばアーティストによって構成された写真のイメージの中に「プンクトゥム」を意図的に仕込むことが可能であったとも言えるのじゃないかとさえ思う。
ティルマンスの「展示性」
しかし、ティルマンスの特異性は、やはりその「展示性」にあると考える。展覧会会場にあった映像を見た後、展示を見ていていくつかのことに気がつくこととがあった。たとえば、Wall1には大きなイメージがいくつかあるが、ふたつはダブルクリップで壁に直接とめられたもの、ひとつは横位置でフレームに入れられたもの。実はこれらの写真は微妙にサイズが違う。左から209*138.5cm、135*200cm、207*138.1cmとなっている。さらには、縦位置の2枚はインクジェットプリントだが、額装されたものは発色現像方式印画で、紙の持つテクスチャがちがう。
壁にカッティングシートで提示されていた展示の情報を確認すると、21点ある作品で同じサイズの作品は2種しかない(30.5 × 40.6cm、40.6 × 30.5cm)。
つまり、実に21点の作品を19種のサイズで展示していることになる。ちなみに、サイズを提示した作品情報は会期開始後数日で差し替えになっていた。何があったのかはわからないが、その後は作品の仕上げに関して詳細な情報が載ったものになった。そこから仕上げの方法を見ると、またこれも多様である。ざっと見ただけでも6、7種類の仕上げの方法となる。仕上げの違いはオブジェクトとしての写真の見た目に構造的に影響が出る。
繰り返しになるが、ティルマンスの展示の特徴は大小さまざまなサイズの写真を不規則に壁いっぱいに展示するこの「展示性」にある。「展示性」は現代写真における重要な戦略のひとつである。
コンテンポラリーアートのアーティストのある種の常套句に「作品の解釈は鑑賞者にお任せします」というのがある。写真家も多分にもれず、この言葉を口にするが、今回ティルマンスの展示を観て、ここに決定的な違いがあることを感じた。
アーティストと写真家の違い
写真家の多くは同じフォーマット、同じ仕上げでイメージを扱い、綺麗に並べて展示をすることで、それらのイメージ以外の部分での差異をなくし、すべてを等価に扱っているということを示そうとする。しかし、実際には、リニアに示されたイメージ群には順番という優劣が生まれる。最初や最後に提示されたものには意味を感じるし、並べ方によって起承転結がほのめかされることもあるだろう。一方で、ここまでに書いてきたように、ティルマンスはすべてをバラバラに提示する。サイズ、仕上げ、展示というすべての階層において、バラバラであることは実は、「イメージ」つまり、ティルマンスが見ている「世界のすべて」を等価に扱うことになる。ティルマンスはイメージ内と、展示というふたつの階層で、自分自身が「世界をどう見ているのか?」ということを示して見せている。
さらに、ゼミの教授である後藤繁雄の受け売りであるが、ティルマンスの作品制作の根底には「アストロノミック」という概念がある。夜空の星はそれぞれ遠さはちがうものだが、ある一定以上の距離をとってみた時、夜空という平面に それらの星は等価に「点」として置かれる。その等価にされた点と点を繋いでイメージとし、そこに物語や意味、そして価値を創り出してきたのがわたしたち人間の想像力だ。
バラバラに展示をされたいわゆる「ティルマンス的」な展示によって、この展示にははじまりも終わりもない。鑑賞者はこのティルマンスが星空として目の前に散りばめてみせた世界を好きに自分の物語として編めば良いということなのだ。オブジェクトとしての差異はその物語の存在可能性をより複雑にし、複数可能性の掛け算の答えを大きくする。
撮影の段階では極めて写真的である。つまり、写真一枚一枚を見れば、いい写真ではあるが、極めて私的なまなざしによるもので、世界の主体は鑑賞者ではない。しかし、展示という段階になって突如として、この写真によって構成された世界の主体が鑑賞者である「わたし」というように展示全体で自身の概念へと鑑賞者を引き込んでくる。どんな世界を思い描くか?イメージの星空でどんな星座を組み上げ、物語をそこに作るのかは鑑賞者によるものとなっている。
ここまで考えて、なるほどティルマンスの考え、やりたいことはわかった。とはいえ、あまりに相対的すぎることで、どこを入口にしていいのかということがわからないという人が一定数いることもわからなくはない。一枚一枚を見れば、写っているのは西洋のどこかの日常であり、わたしの世界ではない。しかし、後半のWall4に突如として漢字やレシート、日本のももなどが紛れた窓際の写真が1枚入ってくる。
おそらく2015年、国立国際美術館での個展に併せて来日したときに滞在したホテルで撮影したものだと考えられる。こういうところが、ティルマンスというアーティストの心憎いところなのだろう。
まとめー現代写真研究者としての視点
美術史の形式を踏襲しながらもその中に「この時代をどう見ているのか?」ということをサブリミナルに滑り込ませている
世界のすべては平等(等価)であるという彼の世界への視座をモチーフに向き合う段階、作品の展示という段階のふたつにおいて表現している。これらは写真という言語性の意味と形式にあたる。
世界を複雑性と可能性を広げ、その選択を鑑賞者に委ねる。写真というオブジェクトワークでありながら、「展示性」によって鑑賞者との関係性こそがこの作品の本質となっている。