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台湾新竹市に来て20日目の朝

2024年8月20日。
新竹市に来て、20日目の朝となりました。
前回の投稿から10日が経ちましたが、この10日間もかなり濃厚な日々になりました。以下、備忘録的にリストアップしていいきます。

8月10日(土)
・アパートの大家さんスタジオを訪問
・大家さんのおじいさんと日本統治下の生い立ちについて日本語でオンライントーク(Day #1)

8月11日(日)
・十八尖山ハイキング(日本統治下の防空壕が重力研究施設へと利活用転用されていた)
・新竹公園の出店(でみせ)を楽しむ
・大家さんのおじいさんと日本統治下の生い立ちについて日本語でオンライントーク(Day #2)

8月12日(月)
・TMSC Museum of Innovation見学
・大家さんのおじいさんと日本統治下の生い立ちについて日本語でオンライントーク(Day #3)

8月13日(火)
・隕石とソウルの不思議体験会

8月14日(水)
・新竹台大分院生医医院竹北院区 Hospital Art 見学

8月15日(木)
・新竹市在住の日本人の友人スタジオ訪問
・春室 SPRING POOL GLASS STUDIO + The POOLにてDIY相談

8月16日(金)
・台湾花蓮県東南台湾東部海域朝7時35頃地震 (M6.1)
・曽文岑さんと日本語で台湾の思い出の対話

8月17日(土)
・新楽園アートスペース(桃園市)でのトークに参加
・パリ在住台湾生まれのアーティストとその家族に再会
・桃園市にて台湾のお盆に遭遇

8月18日(日)
・台北にて台湾市立美術館訪問。陳澄波の図録などを資料室で拝見
・行天宮にて参拝
・TASA主催のクリエイティヴ・ワークショップ(育成プログラム)を見学
・竜山寺を参拝
・寧夏夜市を散策

8月19日(月)
・陳澄波文化基金会を訪問

ざっとリストアップしてみましたが、個人的にはかなりいろいろな出来事がありました。10日前のことがつい最近なのですが、記憶としてはもうすでにかなり過去のことのようにも思えてしまうほどです。前回と同様、それぞれが一つのトピックとしてなり得るのですが、かいつまんで今、思い当たることをざっと書いてみたいと思います。

前回も少し書きましたが、日本の教育を受けた方から直接日本語で当時のことを聞いてみたいと言う希望に、滞在先の大家さんとご家族のご厚意で、1930年生まれの曽和松さん(大家さんから見ておじいちゃん)とオンラインでお話ができる機会を得られました。台湾南部の高雄と新竹市をオンラインで繋ぎ、繋がるや否や早速、何の躊躇もなく日本語で会話が始まりました。本当に台湾に関して無知の状態でしたので、台湾の歴史、地理、政治の入り乱れるお話でいろいろなことに気付かされました。

日本統治下の1930年に生まれたこと。日本語教育で育ったこと。とても良い先生たちに恵まれ歌や音楽が好きになったこと。小学校を卒業してすぐに、船や鉄道に乗り神奈川県の大和市へ送られたこと。そこで日本の戦闘機「雷電」の操縦室の組み立てや計器のチェックをして過ごしたこと。終戦後の日本生まれの日本人と台湾生まれの日本人の立場の変化。小学校の音楽の先生との奇跡の遭遇。台湾帰還など。激動の時代を奇跡の連続とも思われるような壮絶な人生を生き抜いて来られた様子を毎晩1時間ほど3日間続けて聞かせていただきました。また、台湾の人の移動の歴史、産業や原住民のことなどもところどころでお話を伺うことができました。例えば、もともと住んでいた高砂族(高山族)のことや山々には良質な檜が生育していて、伐採して日本統治時代の日本本土へ供給していたこと。その木で明治神宮の鳥居が建てられていたことなど。日本と台湾の相互の協力関係も少しずつ理解が深まりました。このお話に関しては、オンライン中にノートにメモをとっていますので、いつか整理してお話できる機会があればと思います。

また、世界の半導体委託生産シェア#1で最近熊本にも工場ができたtmscの本社にあるMuseum of Innovationの印象的なこととして、創設者のモリス・チャン氏が40年ほど前に8枚の提案書を国の会議に提出したところから始まるということ。トレーシングペーパーのような紙に書かれた提案書が現地にて印字してあり、かつ、デジタイズされているので内容もしっかり閲覧できるようになっていました。また、半導体の製造方法に関するビデオも見ることができ、フォト・リソグラフィーという技術が使われていることもとても興味深いものでした。解説ビデオを見ながら、写真や版画の一種の技術によってハイテク機器の一部が作られていることを知り、なんとなく親しみを持つことができました。そして、奥さんであるソフィー・チャンさんが画家であり慈善家であること。風景画や抽象画の映像を見ながら、科学者で事業家のモリス氏と画家で慈善家のソフィーさんのお互いの存在や支え合い姿が、アーティストの私の目にはとても印象的に見えました。

そして、台湾のホスピタルアートの見学。これはこれで、別にまとめるつもりでいますが、ここでは備忘録として。国立台湾大学医学部附属病院の新竹分院とでもお伝えするのがわかりやすいかと思います。初見の印象は私が日本で見てきたホスピタルアートと大きな違いはないように見え、見慣れた印象を受けました。5年ほど前にオープンしたこの病院ですが、エージェントがハンドリングをされているようでした。大きな彫刻、絵画、映像、家具など、置かれるスペースの用途に合わせ配置され設置されていたと思います。これらの作品はしっかりとQRコード付きのキャプションも設置され、基本情報が掲載されていました。

全体を通して見て、興味深かったこととしては、建築物のドアや家具の色が比較的ビビッドなものが目立ったこと。日本の病院だと多くの場合、自然食や比較的落ち着いた色で仕上げていることが多いと思います。そして、残念なことですが、映像作品はメンテナンスか何かの理由で電源が入っておらず鑑賞できなかったり、撤去されたりした作品もあったようでした。小児病棟には壁画がたくさん描かれていて、色も落ち着いて優しい雰囲気に仕上がっっていましたが、わかりやすいキャプションのようなものは設置されていなかったようでした。そして、絵本を手がける出版社が担当したスペースがあり、壁面には人気のある絵本だと思いますが、そのイメージが大きく張られ、設置されている本棚から絵本が自由に借りられるようなスペースが作ってありました。この他にも地域の絵画サロンのような団体に所属している方々の制作された作品が発表されているようでしたし、病院自体が収蔵しているベテラン・アーティストの作品も展示されていました。全体的には、自然や季節を扱った具象的な作品が多かったように思います。また、プロによるピアノやバイオリンなどの定期演奏もされているようでした。

さて、いつもよりもヴォリュームが嵩んできましたが、最後に前回もお伝えした「東台湾臨海道路」やその作者である陳澄波のことをお聞きしたく台北市にある陳澄波文化基金会を訪れました。急な問い合わせにも迅速にご対応いただき大変有り難く思います。さて、少し緊張しながら伺いましたが、やはりスタッフの皆さんいろいろと忙しそうにされている中、陳澄波さんのお孫さんで会長の陳立栢さん、ディレクターの何冠儀さん、研究者の張哲維さんのお三方にご対応いただくことができました。

事前に質問をお伝えしていたので、その質問に沿ってお話を進めさせていただきました。「東台湾臨海道路」が実際に書かれた地点を教えていただくとともに、描かれているモチーフである実際に存在する山や海と、実際にはそこにはないが組み合わされた原住民の姿、集落、そして、複数の視点が存在する構成。絵画制作を委託した原住民や自然環境を大切に捉える上山満之進の意図や自然豊かな阿里山を背景に育ち、自然の霊性のようなものを大事に捉えてきた陳澄波の姿勢にも触れることができました。日本統治時代初年である1895年に生まれ、終戦の2年後である1947年に亡くなった陳澄波は、95%日本人かつ5%台湾人であったという政治による帰属先と、もっと根底にある自然の霊性との繋がりが根深く陳澄波の中に存在していることが伝わってきました。北回帰線と黒潮が交差するこの台湾の魅力は、そういった自然の霊性の賜物なのだというお話もとても印象的で、新たな視点や理解が深まる学び多き時間となりました。この辺りの内容はまた別の機会にまとめたいと思います。

ということで、台湾に来て約20日頃のnoteはこれくらいで終わりたいと思います。今回の滞在のまだ半分まで行ってない〜!

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