100年間、井波に息づく『ドジョウの蒲焼』を食する文化
<はじめに>
「なりわいノート」特集第三弾は『井波の魚文化』です!
掲載5社目は、お酒のつまみにピッタリ!なドジョウの蒲焼を提供して今年100周年を迎える「福光屋」さんです。
福光屋の創業は大正13年(1924年)。創業当初から『ドジョウの蒲焼』『うなぎの蒲焼』を看板商品として営業を続けています。今回は3代目 竹本弘さんに、市内のドジョウ文化と100年続いた秘訣についてお伺いしました。ぜひご一読ください!
<福光屋とは>
創業1924年(大正13年)。
ちょうど100年前に福光で修行を積んだ初代(3代目のお祖父さま)が井波へ移り飲食店を開業したことがはじまり。福光から移り住んだため、店名は「福光屋」。看板商品はドジョウとうなぎの蒲焼で創業当時から100年間、変わらず井波の人々に愛されている。
代表は3代目 竹本弘さん。現在後継者はおらず、自身の体力が続く限りお店を続けていきたいと意気込む。
うなぎではなく『ドジョウ』! 旧加賀藩領に残る食文化
暑い夏の土曜日にふと食べたくなるものといえば「うなぎ」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。テレビやチラシ広告で特集され、スーパーの売り場で「土用のうなぎ」コーナーが設けられていると、つい手を伸ばしてしまいますよね。
日本では夏の暑さに対する滋養強壮効果を得るためうなぎを食する習慣がありますが、実はここ南砺市では「うなぎ」ではなく「ドジョウ」を食する文化があります。正確には、南砺市内のみならず旧加賀藩領内の文化であり、石川県金沢市から富山県は高岡市までドジョウの蒲焼を提供するお店が今なお残っています。
ドジョウの蒲焼は金沢の卯辰山に流された隠れキリシタンが、自身の食い扶持を稼ぐために生産・販売したことがきっかけで誕生し、その美味しさからいつしか地域の人の暮らしへ定着していったという研究結果があります。
そのドジョウの蒲焼を看板商品に100年のあいだ飲食店を営むのが上新町の「福光屋」です。創業は大正13年。現代表である竹本弘さんのお祖父さまが創業されました。当時、金沢にほど近い福光にはドジョウの蒲焼を扱う飲食店が複数あり(現在は南砺市内に4店舗)、そこで修行を積んだお祖父さまが井波へ移り商売を始めたことを起源としています。初めは飲食店というよりは女性が料理とお酒をふるまう“飲み屋”だったそうです。大正~昭和前期の賑わいや井波特有の花街文化、陽気な旦那衆のいる町並みを思うと、大層繁盛していたのではないかと想像できます。
ちなみに、創業年については竹本さんがお祖父様の戸籍を調べてわかりました。
ハガキ一枚で、あっという間に家業を継ぐことに!
「福光屋」は、創業から100周年の半分以上である56年間を現代表である竹本さんが切り盛りしてきました。竹本さんはもともと福光屋の次男として生まれ、家業は兄が継ぐものとして自身は福井県の会社にサラリーマンとして勤めていました。そこで現在の奥様と出会い結婚。ちょうど東京へ転勤になるというタイミングで、お二人は東京での新婚生活が始まると意気込みアパートの手配まで済んだとき、ふいにお祖父様から一枚のハガキが届いたのでした。
そこには、「――帰ってこい。」と記されていたのです。
竹本さんご夫婦の新婚東京生活は始まる前に終了し、お二人は井波へ戻ってきました。その時のことを奥様は笑顔で「結婚詐欺やわ」と話します。(笑)
当時、福光屋は高瀬神社の料理仕出しを担当しており、結婚式が多いときは一日に4~5組入るという大忙しの時代。料理を作って運んでとどうにも手が足りなかったのです。あわせてお父さまが事業拡大に取り組み、飲食店とは切り分けて魚の仕出し屋をはじめました。現在京願町にある「福光屋」です。お父さまとお兄さまがそちらへ移ったため飲食店の人手が足りなくなり、竹本さんが呼び戻されることとなったのでした。
魚屋の福光屋は現在お兄さまの息子さんである、竹本さんの甥っ子さんが継がれて現在も営業を続けています。
ドジョウとうなぎ一筋で100年間。こだわりは「タレ」と「新鮮さ」
創業から100年、飲み屋から食堂へと形を変えていきましたが「なにか新しいメニューに挑戦しようとは思わなかったのですか?」と筆者が質問したところ、本当に100年間変わらず、ドジョウとうなぎの蒲焼一筋でお店をされてきたとのことです。さらに驚きなのが、蒲焼のタレについては創業時から継ぎ足し継ぎ足し、ずっと同じものを使用しているとのこと。まさに「秘伝のタレ」「竹本家相伝のタレ」といっても過言ではありません。筆者もドジョウの蒲焼を一ついただきましたが、甘じょっぱさの中にしっかりと苦味が効いており、それでいて濃い感じはしない、絶妙なタレの味わいでした。スッキリとしたビールにも、濃いめのお酒にも合いそうな良いおつまみだと感じました。
ところで、皆さんは生きているドジョウを見たことはあるでしょうか。竹本さんがまだ小さい頃は近所の田んぼや小川にドジョウがたくさんいたそうです。当時は農薬を撒かない農法が当たり前でしたので野生のドジョウがあちこちに生息しており、子どもたちは竹のザルでドジョウすくいをして遊び、お小遣いの足しにしようとよくお店へ売りに来たそうです。現在では野生のドジョウなどほとんど見ることがなくなりましたが、ドジョウすくいをしてそれを食べるという日常が確かにあったということです。
現在はドジョウのすべてを仕入れに頼っていますが、竹本さんご自身は「新鮮な商品を提供すること」をとても大事にされているため、うなぎもドジョウも生きた状態で仕入れて店内の生け簀で泳がせています。すべての料理に言えることですが、先程まで生きていたということが、新鮮さ・美味しさに大きく直結します。
「真面目にやってきた」と言い切れる実直な人生
最後に、これまで100年間続けてこられた要因についてお伺いすると、竹本さんからは「正直に真面目にやってきたから。」というお言葉をいただきました。竹本さんご夫婦は、飲んだくれることもなく、博打をすることもなく、タバコも吸うことなく、ただひたすらに慎ましく真面目に生きてきました。そのご夫婦のお人柄に惹かれて常連客になる方も多いのだと思います。
現在、竹本さんの唯一の道楽は「写真」。特にお花の写真を撮ることが大好きで、店内にもデジタルフォトフレームが2台設置され、竹本さんが撮影した写真が次々と映されていきます。本格的なカメラを使ったその腕前と根気はプロ並みで、写真撮影のために河口湖へ行ったり、足利へ行ったり、最近では福島県まで行ってきたそうです。これまでの作品は福光屋店内で見られます。
おわりに
福光屋は現在跡継ぎがおらず、竹本さんは「自身の体力が続く限りお店を続けていきたい」と意気込んでいます。井波の魚文化のひとつである「ドジョウの蒲焼」が、将来なくなってしまうことが重々考えられます。今一度、その味を噛み締めてしっかりと記憶し、未来の若者へも一つの文化として伝えていってほしいと思います。
また、私のこの文章がその一助となれば嬉しいです。