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福沢諭吉『人間の安心』~福沢の人生論
こんばんは コウちゃんです。
福沢諭吉の教育論を考えるにあたって、教育って人を育てることだから、
「その人がどのような人生観を持っているのか」
ていうのがその人の教育観を考えるうえで重要じゃないかと思ったので、
福沢が人生論を述べているエッセイを『福翁自伝』の中から紹介したいと思います。短いので要約というよりほとんど現代語訳ですが。
現代語要約
宇宙の中に地中が存在することは、大海のなかに芥子(けし)の種が1粒だけ浮かんでいるようだと例えても十分に言い表せない。(※芥子の種は非常に小さい)
我々が人間と名付けた動物はこの芥子の種一粒の上に、生まれて死ぬものであって、生まれてくる理由も知らず、死ぬ理由も知らず、どこから来たのかも、どこへ行くのかもしらず、わずか百年の寿命も得難く、塵(ちり)のごとく、埃(ほこり)のごとく、水たまりにいるボウフラのようだ。
カゲロウは朝に生まれて夕べには死ぬというというが、人間の寿命と比べてさして違いはない。ノミやアリと世比べしても大きな象の眼から見れば大小に差はなく、一秒の遅速を争っても百年のという長い視点からみれば論ずる必要もない。広大無辺な宇宙の視点から考えれば太陽も月も地球も小さなものである。
ましてや人間のごときは、無智無力、見る影もないウジ虫同様の小動物にして、電光石火の一瞬、偶然この世で呼吸し寝食し、喜怒哀楽の夢の中、たちまちに消えて跡形もなくなるのみである。それなのに、俗世間では、貴賤貧富、栄枯盛衰などといって、懸命に努力し心身ともに苦労する有様はおかしくも見苦しくもみえるが、すでに世界に生まれた以上はウジ虫ながらも相応の覚悟がなければならない。
その覚悟とは、人生は本来「戯(たわむれ)」であると知りながら、1回きりの戯を戯とせずに真面目に取り組むことである。豊かな生活が出来ることを志し、同類の邪魔をしないで自らの力で安楽を求め、50・70の寿命も長いものと思い、親孝行し夫婦円満であり、子孫のためを考え、また家庭外の社会の公益のために思案し、生涯一点の過失がないことを心がけることこそウジ虫の本分であれ。
否なウジ虫のことに非ず、万物の霊長たる人間が唯一誇るものである。ただ戯と知りつつ戯れば安心して極端な戯に走ることないだけでなく、戯だらけの俗世間の中でも一人だけ戯れないのもまたよろしい。人間が安心を得られる方法はおおよそこのような考え方にあって大きな間違いではないだろう。
考えたこと
人間なんてウジ虫同然だ。なんともショッキングな表現である。
人間社会の中で見れば人間の命はかげかえのない重いものだ。「地球より重い」とおっしゃた総理大臣もかつていらっしゃったほどだ。一方で、自然界の視点から見れば、人間の命の価値なんて存在せずウジ虫や蚊と同じだ。今筆者が1人消えたところで宇宙の時の流れは変わらない。
だが生まれた以上ウジ虫だろうと何だろうと、所詮は人生「戯」だと分かりながら、一生懸命生きることを万物の霊長としての人間に求める福沢の力強いメッセージでああると思う。どうせ死ねば一緒だと人生を諦める訳でもなく、人生の成功に凝り固まる訳でもなく、人生を「戯」であると見て体の力を抜いて一生懸命生きることを人間のあるべき姿として伝えている。
自分自身の一生という視点だけだと、人生は非常に長く重たいもののように感じてしまい、間違えないようにと人間は恐れて行き詰ってしまうこともある。そんな時に、大きく視点を広げて人生を軽くみることもまた、短くも長い人生を一生懸命生きる原動力になるのかもしれない。