福沢諭吉「小学教育の事 三」~ひっ算か算盤か
前回のパートでは小学校の初めに平仮名か片仮名か、楷書か草書か、どちらを先に述べるべきか論じていました。
今回のテーマはひっ算かそろばんどちらが大切かというテーマです。ですが、後半は小学校教育から脱線して帳合の方法について論じてます。
身分制度がなくなったとは言え、身分意識も強く経済的・智識的な格差も大きかった時代において、上流階級と下層階級が同じ方法を用いることを重視しています。
要約
ひっ算と算盤どちらも便利だが、算盤が一般的な現在の社会ではひっ算は不便であると言わざるを得ない。すぐに学校を退学してしまっても役立つように算盤を優先すべきである。
西洋流の横書きの帳合法は非常に便利で上流社会では用いられるかもしれないが、一般の人々はその利害得失を考えるいとまがなく、まずその外見の体裁に驚いてこれを避けることになるだろう。
上流の知見を下流に及ぼそうとするには、その入門の路を簡単にして、帳合にも日本の縦文字を用い、やり方は西洋流にしつつも体裁を日本流にすることが最も重要である。上流と下流の間で分け隔てを作るのは好ましくない。
現代語訳
ひっ算とそろばんどちらが便利かを聞かれれば、両方とも便利であると答えるだろう。石盤と石筆(明治~昭和初期まで使われた筆記具)の価格はそろばんよりも高くなく、その取扱いもそろばんと異ならない。ひっ算は1人で出来るが、そろばんは(数字の読み手と使い手)2人必要である。計算の速さは同じだが、一人分手間を省くことが出来るだろう。こう考えればひっ算の方が便利のようであるが、数字(アラビア数字)の10字だけは今の学校で教育を受けた者以外には通用しないだろう。たとえ学校で加減乗除・比例などを学んで家に帰っても、世間はそろばんの世界ですぐに不都合が出てくるだろう。
父兄はもちろん、取引先・得意先などそろばんばかり用いている相手に向かって「君は古臭いそろばんで僕は今どきのひっ算」などといって石筆で横文字(アラビア数字・算用数字)を記しても、昔ながらの人たちはなかなかあきらめず、ひっ算はかえって無視される勢いである。ひっ算の加減乗除すらも怪しいものにおいてはいうまでもない。学校の勉強は水の泡である。もしもこの生徒が入学中にそろばんの稽古をしていたなら、その初歩で退学しても雑用帳の〆ぐらいは出来て、親の手助けにもなっただろうに、虎の画を学んで猫とも犬とも分からぬものが出来たようなものである。つまり猫ならば初めから猫を学ぶのが良いだろう。理屈においてはひっ算・そろばんともに便利だが、今の社会の現実においては、ひっ算は不便と言わざるを得ない。
小学生には少し縁が遠いことだが、ひっ算のついでに簿記と帳簿合わせ(帳合)の事について述べよう。明治の初年に私が初めて西洋の簿記法の書を読んだ後、これを翻訳して『帳合之法』二冊を出版したころより、世間にもようやく帳簿合わせの大切なことが広まり、近年は稀に俗世間でもこの帳合法を用いているものもいる。西洋流の帳面をそのまま用い、算用数字を横に記して、人の姓名や取引の内容を日本の字を横書きし、額面の文字を左の方から読むように工夫したものがあると聞いた。
この工夫は非常に便利である。第一に西洋の帳面は真似るのが簡単で、あるいは自分で作らなくても出来あいで打っているものもある。第二に、文字が小さく帳面が薄くて取り扱いに便利である。少し横文字の心得がある者であれば、西洋の簿記法を翻訳するには及ばず、すぐにその簿記法にしたがって帳面を用いることができるが、今後ずっと、日本中で帳合法が流行していくかどうかに関しては大いに不便なところがある。
そもそも帳合法が大切なのはいまさらいうまでもない。帳合の方法を知らないで商売する者は道を知らないで道を歩く人の様なものだ。趣もなく、快楽もないのみならず、行き過ぎり、回り道して実際に大きな損害を受けてしまう者もいる。一身一家の不始末はしばらくさしおいて、これを公のことに関して論じても、税の収納、取引についての訴訟、物産の取り調べ、商売工業の盛衰などを調べて、その実態をしろうとするにも、人民の間に帳合法に精通した者がいなければ、暗闇で物を探るようなもので、これに近づく手段はない。日本で統計表が不十分な原因は、多くは帳合法がしっかりしていないことによるものである。
帳合法はこのように大切な物であり、公私のために欠くことができないものであるが、今これを記すのに算用数字を用い、その額に等しい日本語を左側の行に書けば、これを世間で流行させる見込みはあるだろうか。私は断じてその見込みはない。草書を楷書に変え、平仮名を片仮名にしようとしても、容易に行われない俗世間の人民へ、横文字を用いた帳合法を示しても、人民はその利害得失を考えるいとまがなく、まずその外見の体裁に驚いてこれを避けることになるだろう。
ゆえに今の横文字の帳合法は一家に便利であり、上等社会では便利であり、学者や官僚には適するだろうが、一般の人々の社会には適さず、かえってその体裁が見慣れないために実用することを嫌われるものと言えるだろう。
官僚や学者なりが永遠に一般の人々と交際を断つ覚悟ならば良いかもしれないが、かりにも上流の知見を下流に及ぼそうとするには、その入門の路を簡単にして、帳合にも日本の縦文字を用い、やり方は西洋流にしつつ体裁を日本流にすることが最も重要である。たとえば、学者先生の家にしても、横の帳合法は主人には便利だが妻には不便だろう。この主人が家計の事についてまったく妻に知らせず、主人と妻はあたかも他人のようにする覚悟ならばよいかもしれないが、夫婦ともに家計を回していこうとしようと思うならば、婦人にも分かりやすい方法で用いることこそが得策であるといえるだろう。その利害は明らかであり、一々弁論することにも及ばない。
ある人の考えに日本の文字を用いれば、人の姓名を記し事柄を書くことではもとより便利であるが、数字にいたっては「二五八三」と記して「二千五百八十三」とよむのは、一般社会では通用しないという説があるが、結局縦の文字を縦に用いることについては人を驚かすほど奇妙ではない。一二三の文字はどのような下等民でも知らない者はいない。ただその用法に頭を使えば足りることだ。西洋の数字にいたってはわずかに十時であるといえども、開闢以来、日本人が知らないものなのでこれを学ぶには多少の頭を使わざるをえない。すでに字の形を学ぶに頭を使い、又その用法が異なる。これを日本の数字と比べ、便不便は言わなくても明らかである。
結局、今の横文の帳合はどれだけ流行しても、早いうちにいずれ突き当たって、上流民と下流民との「関所」(壁)を生まざるを得ない。縦の帳合は使い始めはたとえ難しくても「関所」(壁)を生む心配はない。例えば日本政府の各省で用いているそろばんも寒村へき地の小さな店で用いるそろばんも、乗除に違いがないのは上下の計算方法に「関所」がないということだ。帳合の法もこうありたいと私の願うところである。あるいは前述のとおり、「二五八三」と記すのは不便であると言うならば、平たく「二千五百八十三」円と記して、西洋帳合の方法を用いるやり方もある。この説については他日に譲る。
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