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執権政治の成立「学習プリント」⑯つき

割引あり

こんにちは
今回のテーマは執権政治の成立です。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のまさにクライマックスのあたりの話ですね。ドラマとして非常に面白かったです。
プリントは頼朝の死から3代執権泰時の時代までを幕府と朝廷の動きの軸をもとに作っています。

解説は全文無料です。リポストで無料になります。

解説

① 13人の合議制

 鎌倉幕府を築いた源頼朝は征夷大将軍に任命されてから7年後、相模川の橋供養からの帰路で体調を崩したことをきっかけに亡くなりました。理由は定かではありません。頼朝の時代の鎌倉幕府は将軍(鎌倉殿)が独裁的な権力を握っており、それに対する不満も蓄積していました。頼朝の個人的な資質と功績によってそれらが抑え込まれていましたが、頼朝の地位を継いだ源頼家にはその力はなく、頼家が直接訴訟を裁決する権限は停止され、有力御家人による十三人の合議制がしかれることになりました。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の題名の由来ですね。

② 北条氏の台頭

 この合議制のもとで、御家人同士の争いが起きます。まず頼家の側近で侍所の長官であった梶原景時が御家人66人に糾弾されて、鎌倉を追放された後に滅ぼされてしまいました。景時亡き後に頼家のもと勢力を拡大したのが、比企能員でした。比企氏は頼朝の乳母の一族で能員は娘を頼家に嫁がせ、その間には一幡という男児が生まれていました。これを警戒したのが北条氏です。このまま一幡へと将軍職が継承されれば、北条氏は将軍家の外戚としての地位を失ってしまいます。北条氏は頼家が急病に倒れて家督継承の問題が起きた際に、北条氏は比企氏に謀反の疑いがあるとして能員を謀殺し、比企氏一族と一幡を滅ぼしてしまいました。その後、頼家は病気から回復しましたが、北条氏により修善寺に幽閉され、その後暗殺されてしまいました。享年23歳の悲劇的な最期でした。

 北条時政は頼家の弟である源実朝を将軍に擁立し、初代執権として実権を握りました。時政は自分の後妻の牧の方の娘婿である平賀朝雅が受領を務めていた武蔵国へと勢力を拡大しようとしていくなかで、武蔵国の有力御家人畠山重忠と対立してしまいます。畠山重忠は清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された人物でしたが、時政により謀反の疑いがあるとして滅ぼされてしまいました。しかし、人望のあった重忠を殺したことは、時政と牧の方に対する反感を呼びました。さらに、時政が実朝を廃して、娘婿の平賀朝雅を新将軍として擁立する噂が流れ、時政は義時や政子らによって伊豆国へ隠居させられることになりました。この事件を牧氏事件といいます。

 時政引退によりその子の北条義時が執権の地位を引き継ぎ、姉の北条政子や政所別当大江広元らと幕政を主導していきました。義時は頼朝挙兵以来の重鎮で侍所別当の和田義盛を挑発して合戦に持ち込み、三浦義村の幕府側への寝返りもあり和田氏一族をほろぼしました(和田合戦)。 この結果、義時は政所別当と侍所別当を兼任し、執権の地位を確立しました。

③ 将軍実朝と後鳥羽上皇

 一御家人に過ぎなかった北条氏はこのようにライバルの御家人たちとの権力争いを勝ち抜き、執権としての地位を確立していきました。それに対して、将軍の源実朝はただのお飾りの将軍だったのかというと、近年認識が改められています。かつては和歌好きで病弱な将軍として語られていましたが、元服した後は積極的に将軍権威の向上に努めていたという評価が高まっています。和歌をたしなんだことは京の文化を取り入れ朝廷との関係を友好関係を築くためであったとも考えられています。実際に実朝は文通ではありますが藤原定家から和歌の指南を受けています。彼の歌は『金槐和歌集』という歌集としてまとめられています。また、実朝は朝廷での官位を上昇させていき、最終的には右大臣の地位まで登りました。これは父頼朝よりも高い官職です。当時朝廷の官位は非常に重要なものです。頼朝よりも高い官位を獲得することによって将軍権威の強化を図ったとも考えられています。
 そういった源実朝の活動を支えたのが、後鳥羽上皇でした。当時、後鳥羽上皇は、新古今和歌集の編纂西面の武士の設置など朝廷の権威を復興することに力を入れており、実朝を支援することによって幕府への影響力の強化を図っていました。

④ 承久の乱

 しかし、出家していた頼家の子の公暁によって実朝が暗殺されるとその試みも挫折し、朝幕関係は冷却化していきます。実朝は子どもはいなかったため、幕府は朝廷に後鳥羽上皇の皇子の将軍就任を要請しましたが、断られてしまいます。そこで幕府は頼朝と遠縁の藤原頼経(九条頼経)を将軍候補として鎌倉に迎えました。(摂家将軍・藤原将軍)

 身分の低い北条氏が鎌倉幕府の実権を握るようになったことに対して後鳥羽上皇は反発し、1221年北条義時追討の院宣を出しました。承久の乱の始まりです。北条政子(尼将軍)の演説もあり、御家人は団結し、北条泰時・時房が指揮する軍勢が京都に派遣されて朝廷軍に勝利しました。

⑤ 承久の乱の影響

 承久の乱の結果は朝廷と幕府の関係に大きな変化をもたらしました。首謀者の後鳥羽上皇隠岐島、協力した順徳上皇佐渡へ、協力しなかったけど自ら望んで土御門上皇土佐へと配流されました。皇族が武士によって処罰されるのは前代未聞のことでした。また、後鳥羽上皇の孫である仲恭天皇は廃され、新たに御堀河天皇が即位しました。これ以降、幕府は朝廷の皇位継承に介入するようになっていきます。朝廷や西国の監視のために幕府の京都での出先機関として設置されたのが六波羅探題でした。初代探題には軍を率いた泰時と時房が任命され、その後も北条氏有力者が任じられていきました。
 承久の乱で敗れた上皇方の貴族や武士の領地は御家人たちに恩賞として分け与えられ、新たに地頭に任命されました。承久の乱以前に置かれた地頭を本舗地頭というのに対して、それ以後の地頭は新補地頭と呼ばれます。ここで問題がおきます。上皇方から没収した領地は西国が多かったため、東国の御家人が慣習の違う西国の地頭となりました。そこで幕府は新補地頭の取り分(得分)を定めた新補率法を定め、新補地頭に田畑11町ごとに1町を自分のものとすることや、段別5升の兵糧米の徴収権が与えられました。しかし、これだけで新補地頭の問題が解決したわけではなく、慣習の違いから荘園領主と地頭との間の紛争が増加することになります。

⑥ 3代執権北条泰時

 承久の乱の戦後処理が終わった後、幕府草創期の中心メンバーである北条義時・政子・大江広元が次々となくなります。3代執権となった北条泰時は個人のカリスマに依存しない幕府の仕組みを構築する必要がありました。彼は執権の補佐役として連署を設置し叔父の時房を任命するとともに、有力御家人11名から評定衆を任命し、執権・連署・評定衆らによる合議による幕政運営の仕組みを構築しました。これを執権政治と言います。執権政治とは執権による独裁ではありません。もちろん主導権は握っていますが、有力御家人から成る評定衆との合議が前提の政治でした。
 さらに泰時はその後の武家社会の基本となる法律を作ります。それが御成敗式目です。彼が式目を制定した背景は、承久の乱後、幕府の勢力が西国に拡大し慣習の違う御家人と荘園領主との間に争いが増えていたことと、数年前に飢饉が起きて社会が不安定化していたことだと考えられています。御成敗式目は訴訟を公平に裁くため、頼朝以来の先例と武家社会の道理にもとづいて作られ、あくまで幕府の勢力範囲にのみ適用されました。決して朝廷の公家法(律令や新制)や荘園領主が定めた本所法を否定するものではありませんでした。その後、鎌倉幕府が滅んだ後も武家社会の基本法として尊重され続けていきます。詳しい内容は教科書等で調べてみて下さい。
 
以上、鎌倉幕府の成立から執権政治の成立までの流れでした。鎌倉殿の13人もう一度みたいなあ。。

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