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福沢諭吉「人生」ー人生の目的と教育

前回紹介した「教育の目的」は1879年に執筆された未完結の原稿の第1章「人生」第2章「教育の目的」「第三章(無題・未完)」のうち、第2章の部分でした。

 そこで今回は第1章「人生」を紹介したいと思います。どのような人生観をベースとして福沢が教育を語ったのか読み解いていきたいと思います。だけど、草稿段階で終わっているものだから、論のまとまりに欠いて非常に読みにくく、まとめるのが難しかったです。

要約

教育の観点でいうと人生は「人の精神形体共に発達して共にその働を逞(たくま)しうするもの」である。

古今東西の教育で未だに完全なものはないので、人生もいまだに完全な者はいない。孔子やキリストなど偉大とされている人物も徳という一部分のみを発達させたのみである。

人生の目的は心身の活動を極限にまで発達させることであり、教育の法はこれを助けることである。しかし、現実にはこれを実現した教育法はまだなく、現在の教育法では達成される見込みもない。

これを以て世の中の教育論者は教育の力の弱さを嘆いているが、彼らは学校の教授のみをもって教育と認識しているからである。教育が行われる所はもっと広く、それらを組み合わせて上手く用いれば大きな力になる。

教育と教授は別であり、教育を前提として教授が後に来るのである。

原文に近い現代語訳

 教育は何のためにあり方法はどうすべきかという問いに答える前に、まずは人生の目的はどうあるべきか論じなければならない。そもそも人生とは形体(肉体)と精神が結合して活動する有様をいうのである。しかし、広義に「生」を論じるときは、知覚の精神なくても肉体が生きていれば之を「生」というべきである。例えば、気絶した人が当てはまる。肉体が完全でなくても精神の働きある時も「生」と言える。例えば、手足や内臓など身体の一部位を失った者である。医学において人の生死を判断する方法は、死後の身体に腐敗の兆候が出て初めて死と判断するという。

 このように人生の定義は広く、医学上ではわずかに心身の活動があれば生であるというが、教育の観点で論じるときは、大きく異なり、「人の精神形体共に発達して共にその働を逞しうするもの」を名付けて人生と称するのである。ゆえに人生の大小進退は非常に多様である。

古今東西の教育で未だに完全なものはないので、人生もいまだに完全な者はいない。昔の人の考えに、人生が偉大であったものを聖と称し、聖人を人生の到達点と定めて、後世の人類は聖人に及ぶことは出来ないと説く者が多いといえども、私からすればこれは甚だしい誤謬と云わざるを得ない。例えば、中国の孔子、西洋のキリストは後世の人が、神聖視して彼らを上回ることは出来ないとしているが、彼らの心身の欠点を挙げれば数えきれないほどある。現代においていわゆる道徳を基準として論じれば、やや完全に近いが、彼らの智術(たくみな計略)工夫は見るに堪えないものであるのみならず、彼らの形体の強弱、健康不健康に至っては後世の学者で論じる者はいない。今、道徳以外で、智術の精巧、形体の健康を基準に論じたら、同時代の人でも孔子やキリストと同じくらいの人もいるだろう。ましてや後世には彼らより優れている者は非常に多いだろう。孔子やキリストも決して完全な人生であった者ではない。

 故に私の知見の範囲で人生の完全なるものを論じれば、徳は耶蘇や孔子のような、智はニュートンのような、体格は力士のような、寿命は彭祖(中国古代の仙人)ような人生である。古今人類の到達した精神と形体とを合体させて完全な者を人生の偉大な者と名付けたが、この偉大なものとて、もとより極限に達したわけではない。後世になれば、今私が偉大とする者よりさらにいっそう偉大な者がでてくるだろう。

 孔子やキリストやニュートンや力士も人生の一部分を発達させた者であり、人生の目的はこの数者を合わせてともに完全に発達させることにある。教育の法は、人生が極限まで発達するよう助けて、生きている理由を無意味なものにしないことだけである。例えば、どんなに良い楽器や刀でも目的のために用いられなければ意味がない。人生も形と性質を見究めれば、様々な働きをして深遠高尚の域に達することが出来るはずなのに、もし何もしなければ無駄になってしまう。古今の人物に大小の区別があるのは人生の働きを大いに用いたものを大人と呼び、少ししか用いなかった者を小人となづけているだけである。

 そうであるならば、人生の目的は心身の働を極限に発達させることにあり。教育の法は心身の働きを導いて極限にまで発達させることである。しかし、古今東西いまだにこの域に達した者はいない。今のいわゆる教育法では達成する見込みはないようであり、世の教育論者も之に失望して、往々にして教育法がむりょくであることを嘆き、ついには一人に才能が備わっていることを求めるなと口実を付け、自分を慰めているものがいるのはなぜか。

 思うに論者のいわゆる教育とは、ただ学校の教授のみをもって教育と認識しているため、その範囲が非常に狭く、その力も微々たるものだが、私の意見では、人生に教育法の行われる所はもっと広く、家族父母の教育あり、血統遺伝の教育あり、政府法制の教育あり、立国風俗の教育あり、天気なり、地理なり、すべて教育に関係ない者はない。これらをうまく使えば教育の力は大きなものとなる。

 本編の立論の趣旨は、教育の意味を学校に限らず、人生の発達に関係する諸々をそれぞれ吟味して利害得失を説明しようとしたものである。要するに教育の主義を先にして教授の法を後にするものといえるだろう。教育と教授は大きく違う。これを混同すべきでない。

考えたこと

① 人生の目的

 少し表現の仕方は違いますが、晩年の福翁百話に書かれている人生観とそう大きくは違いないかなと思います。要は人生の目的は、自分自身の智徳体、様々な側面における能力を最大限発達させていくことであるというのが、福沢の人生観であるようだ。

② 教育の多元性

 教育の場は学校教育だけではなく、その力を過剰評価してはいけない。学校の教授を吸収する基盤はそれ以外の教育の場によって養われていくのである。

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