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イラン旅行記⑧~ペルセポリスへ

こんばんは

前回は、シラーズ市内のモスクを紹介しました。
今回紹介するのがイランで最も有名な遺跡であろうペルセポリス観光を紹介します!

① ペルセポリスの歴史

まず、ペルセポリスについて簡単に歴史を紹介します。

ペルセポリスはアケメネス朝ペルシャ(前550~前330)のもう一つの都です。生の由来はギリシア語で「ペルシア人の都市」という意味です。最盛期の王ダレイオス1世(位前552~前486)の時代から造営が開始されました。

スサが行政的な都であるのに対して、ペルセポリスは王宮などを中心とした祭祀・儀礼の都であったと考えられており、従属国からの朝貢の使者を迎え入れたと言われております。

しかし、前330年、マケドニアのアレクサンドロス大王がダレイオス3世を破り、ペルシャ帝国を滅ぼした時、ペルセポリスは略奪の上、焼かれて廃墟となりました。その後19世紀後半から発掘作業が始まり、1979年に世界遺産に登録されました。

② ペルセポリスへの行き方

 シーラーズ中心部からペルセポリスまでは車で約1時間ほどの距離である。我々はせっかくなので、シーラーズの旅行代理店で、英語のツアーガイド付きのペルセポリス半日ツアーに参加しました。代金は1人約3000円。代理店の方も英語は話せました。やはりシーラーズはしっかりとした観光都市です。

 指定されたところでバスに乗車。このバスで初めてイランで日本人に遭遇しました。1人旅の中年男性で、中東をかなり旅行していて、ペルセポリスで中東の3P遺跡を制覇するとおっしゃってました。もう2つのPは、シリアのパルミラ遺跡とヨルダンのペトラ遺跡らしいです。今となっては、シリアに行くのは難しそうですね。

③ ペルセポリス

現代的なゲートを入って遺跡へ。
自然の丘ではなく、巨石が積み上げられている。
階段を上って旧宮殿エリアへ
高さがよくわかると思います
万国の門(クセルクセス門)、正面入り口
柱には100年くらい前の落書きが掘られていました。
いつの時代も人がやることは変わりませんね。人は何かしらの足跡を残したいと願う。
万国の門の先の2頭のスフィンクス
グリフィン、イラン航空のロゴのモデルらしいです
新春を祝う各地域からの朝貢の使者
全て手彫りで、地域ごとに格好が違う
素晴らしい社会科見学
確か、ダレイオス1世の宮殿跡
この写真ではないですが、焼けた石も紹介されました
実際にアレクサンドロスの焼き打ちによって焼けたことの証拠です
百柱の間 約20mあるらしいです。
ここで各国地域の使節を迎えた
今は柱しかありませんが、元々は、屋根のある巨大な建造物でした
再現したVRの貸し出しとかやっていました(有料)

特別何かが美しい訳でもないですが、構造物の規模感からペルシャ帝国が誇った栄華を想像すると何とも言えない興奮が沸き起こってきました。特に歴史に興味が無い方でも行けば絶対何か感じるものがある場所だと思います。

一つの心残りなのが、丘の上にアルタクセルクセスの墳墓があるのですが、そこに行けなかったことです。ツアーではそこは周らず。丘の上からこの遺跡の全景を見たかった。もし行かれた際はツアー中だろうが何だろうが、行くことをお勧めします。(笑)

④   ナクシェ・ロスタムの磨崖墓

ペルセポリス見学後、ツアーに含まれる、ダレイオス1世とその後継者たちの王墓ナクシェ・ロスタムの磨崖墓に行きました。車で10分程度です。

どれが、ダレイオス1世のものか忘れちゃった
中に入ってみたい―

アケメネス朝ペルシャの王たちの墓の下には、ササン朝(226~651年)の王の事績が彫刻されている。その中にはササン朝の前半期の最盛期の王として有名なシャープール1世に敗れたローマ皇帝ウァレリアヌスが降伏する場面も描かれている。現地ガイド曰く、ササン朝の君主は自らがペルシア帝国の後継者であることを示すためにあえて、アケメネス朝の王墓の下に記念彫刻を刻んだのだという。

シャープール1世のレリーフ


以上、ペルセポリスツアーでした。
古代の世界帝国とアレクサンドロス大王のロマンを味わえるペルセポリス、ぜひ行ってみて下さい。スサの何百倍も感動します!!

この後は、再びシーラーズの中心部へと戻りました。お昼前までにはついていたかと思います。
次回は、再びシーラーズでの観光を紹介いたします。

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