『ツィゴイネルワイゼン(1980)』を観ました。
文芸作品っぽいのかと思ったのと、長い(2時間半)のもあって、観るのを先延ばしにしてました。観てみたら恐ろしいホラーみたいな怪作でした。
知り合いに映画を観ていて、その意味を知りたがる人がいました。「これはどういう意味?」「これはなにが言いたいの?」「この映画のテーマはなに?」と次々と質問してくるので、こんなんでは観ていて疲れるんではないかと、心配になるほどでした。
そういう方はこの作品に近づいてはいけません。退屈するか怒り出すかのどちらかではないかと思います。
これは鈴木清順監督の描いた”大正怪奇絵巻物”みたいなお話しで、カラッポの男がむき出しの人を見て回るような作品かと思います。
常識人である靑地(アオチ)=藤田敏八と、欲望むき出しの中砂(ナカサゴ)=原田芳雄の関係という線がはじめから終わりまで引かれてはいますが、ストーリーというほどの線ではなくて、この二人の周りで起きることを見せていくための、ぼんやりとしたあいまいな線に感じます。
この二人の存在が静と動、白と黒、常識と非常識みたいな対比で、見ていて妙に引きつけられるのでした。
多分私なんかが頭で考えたり、理解したと思うような表面あたりではなく、もっと底の方で繋がっているのを、後から気が付くような作品に思えます。今作ではいっそ考えるのはあきらめてしまった方が楽しめるかもしれません。
やたらと食べている場面が出てきます。それもかなり上流家庭の方がお食べになるような食べ物を食べているような場面です。別に理由はなくて、登場人物が食べたい物を食べているのでしょう。
強烈に脳に焼き付けられるような映像が出てきます。杖をついた目の見えないお爺さんと、三味線を弾く若い女と、唄を歌う若い男が連なって歩く。あの世の入口みたいな橋から見る花火。眼にゴミが入った男の目玉を女が舐める(丸尾末広だっ)。別に理由はなくて、そういう映像がいきなり挟み込まれて、ギョッとしたりします。
どういう仕組みなのかはわかりませんが、その独特な演者の動きと言い回し、映像の構図、カメラワーク、繋ぎ方なんかで、こんな何がどうなるというわけでもない話を、私は最後まで面白く見てしまいました。きっと人によるでしょう。
ハマればこの上なく心地いいですが、ハマらなくて苦痛なのであれば、ストップボタンを押して終了した方がいいと思います(劇場から外に出るのはよっぽどのことでした)。別に結末がどうなるかとかいう作品ではないのですから。
怖いというのも「この人はまともなんだろうか?」とか「この人の言ってること本当だろうか?」という怖さから、「私の言ってることはまともなんだろうか?」とか「そもそも私は本当に生きてるんだろか?」という怖さへと、ズルズルとゆっくり引きずられて行くような感覚がありました。
はじめは靑地(アオチ)=藤田敏八から奇妙な人たちを見ていると思って見ていて、なんでこの男はこういう人たちに興味を持ったり、首を突っ込んだりするんだろうかと思ったりして。実はこの男から見ている人が奇妙なのではなく、この男そのものが奇妙なのではないだろうか。この男から比べれば中砂(ナカサゴ)=原田芳雄は、ただ自分の気持ちそのままに、裏表なく生きていただけ登場人物ではなかっただろうかと思いだして。そして最後には、この靑地(アオチ)という男は何者だろうか、この男の正体はなんなのであろうか、などと思う。
そういう疑問の答えは最後まで出てこないし、そもそもそういう疑問だって、あったんだかなかったんだかわからないのですから。
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