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それでもきっと、守られていた。

最後に会ったのは、中学一年生。入学祝いがしたいからと言われて再会した。たぶんこのときは数年ぶりだった。その頃、自分が母親のことをどう思っていたかとかは覚えていないけれど、このときはまだ母親のことをお母さんと呼べていた。

あれから十二年。十二歳だった私は二十四歳になった。中学一年生だった私は、高校生になって、大学生になって、社会人になった。干支は一周まわっていた。この十二年間、連絡を取っていないわけではなかった。二十二歳までは姉経由で誕生日になると母親からの「誕生日おめでとう」を受け取っていた。二十二歳になり、これから社会人になるという頃になると姉から母親の連絡先を渡された。それからは、誕生日祝いと年始の挨拶が来るようになり、姉経由でなくなったこともあり軽い近況くらいは話すようになった。とはいえ、十年以上話していない母親はもはや身内なのか知り合いなのかも自分の中で分からず、敬語にするべきなのかフランクに話していいものなのか迷いながら、メッセージを書いては消してを繰り返し、当たり障りのない適当な言葉選びをして送信ボタンを押していた。会う気なんて今更なかった。

再会の話が出てきたのは、二十四歳の誕生日だった。姉から「今度、お母さんに会ってみない?」とLINEが来た。酷く困惑していたと思う。自分でも顔が強ばったのがわかった。

十二年。二十四歳の私からしたら人生の半分。ましてや、母親と共に暮らさなくなったのは三歳の頃からだから、私はほとんど母親のことなど知らない。好きな食べ物も嫌いな食べ物も、どんな音楽を聴くのかも知らない。今さら何を話すんだろう、どんな顔をすればよいのだろう、私はちゃんと母親を“お母さん”と呼べるのだろうか。よくわからないもので心の奥底にあった淀みを掻き乱されたようだった。結局、会いづらいという私に対して「新年の挨拶ということにしよう」との提案があり、私はそれを受け入れる形になった。

一月二十二日。母親に会う日。一番落ち着く服を選んだ。向かうのは横浜、三歳から十歳くらいまでの母親とまだよくあっていた頃によく遊んだ駅。行きの山手線で胃のあたりが気持ち悪くなった。吐き気を感じた。母親に会いたいかと問われてもよく分からなかったし、そもそも母親が私に会いたがっているのかすら私には分からなかった。

実のところ、私は年が明けてからの約三週間、母親に会うかどうかを悩んでいた。きっと会わないという選択をしても、きっと誰も私を責めなかったと思う。姉も母親も、それとなく、なんとなく、わかってくれただろうと思う。ただ、当時出会ったばかりだったとある人に産んでくれた母親に会うか悩んでいるという話をしたときに「親にとっての幸せってなんだろうね」と言われた。私は、その答えが分からなかった。母親が今何を幸せだと思ってるのか、私には想像もつかなかった。「会うべきだと思う。会っていなかった十二年間、話したかったこと、話さなきゃいけないこと、ちゃんと話しておいで」。その言葉が何よりもの救いで、何よりも背中を押してくれた言葉だった。

十二年ぶりの母親はあまり変わっていなかった。大人になると人の顔ってあまり変わらなくなるんだななんて呑気なことを考えていた。一方で母親は私の顔を見るなり「全然お姉ちゃんと似ていないね〜。外で会ったら分からなかったかも。」と言った。そりゃそうだよ、十二年も会ってないんだからと思いつつ、少しだけ胸が苦しくなって、私はそれを悟られないように「そうかなぁ〜」なんて笑って見せた。姉は母親似だった。

十二年ぶりの母親との会話はぎこちなかった。話は一人暮らしはどうかとか、横浜も雰囲気変わったねとか、背伸びたねとかそんなものだった。

姉と甥っ子を含めて四人で食事をしながら、なんの集まりかも知らず無邪気に振る舞うもうすぐ三歳になる甥っ子を眺めながら、母親は私がこの子くらいの歳の頃に居なくなったのだなと思った。その一方で、母親が甥っ子を見守る姿を見ながら、私もこんなふうに見守られていたのだろうかと考えた。

両親の様々を、私は知らない。幼かったながらも覚えているのは、両親の罵声と頭上を飛んでいくスリッパを見ながら「スリッパって空を飛ぶんだなぁ」って思っていたことと、父に抱っこされながら言った「行ってらっしゃい」に母親が笑ってその日を境に彼女が帰ってこなくなったこと。母親に抱きしめられた記憶はひとつもない。褒められた記憶も、笑いかけられた記憶も。記憶の中の母親はいつも怖かった。怒っていた。ピアノを弾いてる時だけは母親は穏やかで、私は少し遠くで聴く母親のエリーゼのためにが好きだった。

結局、会っていた三時間、私は一度も母親を“お母さん”と呼べなかった。そして私はこのとき、初めて母親は私のことを“桂子ちゃん”と呼ぶのだと知った。なんてことないことに、少し涙腺が緩んだ。

もうこれが最後かもと思った十二年ぶりの別れ際、母親は私に向かって「じゃあ、またね」と言った。母親から届いたメッセージには「また機会を作って会えたら嬉しいです。」とあった。私はまたいつか母親を“お母さん”と呼べるだろうか。私の背中を押してくれた私の大切な人を、いつか母親に紹介できるだろうか。母親がそれを望んでいるかは分からないけれど、それでも、毎年のメッセージも私をどこかで見守ってくれていたものだったのなら、私はそれを母親の私に対する愛情だと信じてみたいと思った。

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