減点方式でも、生きていく。
「自分に自信がないんだね」
自分に昔から自信がなかった。心の中にはいつも『自分なんて』があった。100点満点をいつでも取らないといけないと思っていたから、少しでも欠けると「自分はダメなんだ」と思っていた。
自分自身への評価の仕方に気がついたのは、いつだったろう。よくは覚えてないけど、ふと周りは加点方式の人が多いのに、自分は減点方式で生きているんだなと気がついた。少しでも欠点があるとそこにスポットライトを当てて減点していってしまう。誰も得なんてしない、そんなことはわかっていても減点は続く。いつだって、何にだって自信がなかった。
自信をつけろと言われても、それはとても難しかったりする。自信は、一人でつけるのは難しいものの一つだと思う。
なんとなくだけれど、私は「自信は、半分は自分でつけるもの。もう半分は誰かからもらうもの。」だと思っている。全部を自分でつけるのは、きっと難しい。
久しぶりに友人や知人に会うと、「変わったね」「明るくなった気がする」と言われることが多いけれど、それは私が「変えた」からだと思う。
ひとつは、自分で自分に自信を持っていく。正確には、「自分に自信をつけていってあげる」が正しいかもしれない。
ゴワゴワで触れるたびに痛くなるようなタオルは使わずに、定期的にタオルを新調する。自分が作った料理が美味しいときには、自分を盛大に褒める。メイクの調子が良い日は、「ふふん」と鏡の前で笑ってみる。身の回りをある程度整えて、自分を少しでもいいと思ったら「ふふん、今日の私なかなかいいじゃない」と思ってみる。自分をかわいがる。蔑ろには決してしない。それに尽きる。
ただ、これもきっかけがないと「そんなこと思えないよ」となる。そう言っていたのが、少し前の私。けど、少しずつ、「私を好きだと、素敵だと言ってくれる人たちの声を信じてみてもいいじゃないか」と思ったことがあった。
それは、もしかしたら中学生の頃に私の頬を手で包みながら「それでもけいちゃんはこんなに可愛いんだよ」と言ってくれた友人のおかげかもしれないし、私に日頃愛を伝えてくれる友人たちや先輩後輩のおかげかもしれない。
いずれにしても、いろんな人の言葉に触れる中で、愛される側である瞬間がある以上は、それをちゃんと受け止めたいと思った。嫌なことは、受け止めなくていい。決して受け止めなくていい。それでも、私を愛してくれた人たちの言葉は、ちゃんと宝箱に仕舞うように受け止めようと思った。
そう思いはじめたときから、誰かに褒められるたびに「えへへ、ありがとうございます。嬉しいです。」と言えるようになった。
ありがとうは、いいなと思う。ひとこと言うと、相手の言葉を受け止めるための柔らかい布団がそこに敷かれるようで、前よりもあたたかく言葉を受け止められるようになった。
受け止められるようになると、みんなの褒め言葉が私の宝箱の中に並べられるようになった。なにかに躓く日があっても、泣きそうになる日があっても、自分で減点してしまう日があったとしても、それでも「それでもあの人は、そんな私を素敵だと言ってくれた」と立ち直れる。そして、「あの人が好きだと言ってくれた私は、ダメダメなんかじゃない」と思える。そうなった。
誰かの言葉を受け止められるようになったこと。これが、ふたつ目の変えたところで、変わったところで、変われたところだと思う。
日々は、完璧にはいかない。自信なんて1ミリもなくて、減点ばかりしてしまう日もたくさんある。
エアコンつけっぱなしで外出しちゃったり、賞味期限切らしちゃったり、忘れ物しちゃったり、人とうまく話せなかったり。「あー、もうなんでかなぁ…」って思う日だってたくさんあるけれど、それでも自分をかわいがる。愛する。
自分を決して蔑ろにせずに、誰かの言葉を受け止めるためのお布団を自分の中に用意してあげる。そして、お布団であたためられた言葉たちを仕舞っておく宝箱を自分の中にひとつ置く。
その言葉はきっと、私の記憶になり、宝物になり、お守りになる。
だから、減点方式の私でも、大丈夫だ。減点してしまう分、私はたくさん言葉たちを抱きしめて生きていく。それだけで今は、まだ何年も生きていける気がしている。
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