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未来のことが、考えられない。

家に帰ってくると、涙がとめどなく溢れた。小さな子どものように大声をあげて泣き、「もう無理だよ、しんどいよ、帰りたい」と泣きながら口にした。子どもの頃は何時間も泣いていたような気がするのに、大人になって ずっと泣くなんてことはなくなった。一通り泣いて、目元が真っ赤な鏡の中の自分見て、限界が近いことを悟った。

何ヶ月前からだろうか、未来のことを考えることができなくなった。

はじめのきっかけは、会社に来ている保険の営業さんと話したときだった。よく話す彼女がある日、私のためにとプランが記された紙を渡してくれたとき、そこに書かれた「25年間」という言葉に眩暈がした。生きてきた年月と同じ年月分だけ先にある未来を全く考えられなくて、その日を境に「あと5年でいいな」と思うようになった。あと5年、あと5年でいい。5年を過ごしているうちに、もう5年生きたいと思えたら生きればいい。それくらいのことを考えていた。

それから少しして、友人との会話で「これまでのことやこれからのことについて、なんでも教えてもらえるなら何が知りたい?」という話題になった。友人が「自分がどんな人と結婚をするのか、相手が知りたい」と言った一方で、私は「自分が生まれた時や初めて立ったときに、家族や周りの人がどんな顔をしていたのか知りたい」と話した。私は、それを知れれば今の自分がもう少し肯定して見ることができるんじゃないかとそんなことを考えていた。彼は未来を、私は過去越しに現在を見ていた。

昔から、先のことをすごく考える人ではなかった。それは、私の根本に「今、此処にあるものを大切にしたい」という気持ちが流れていたからだが、今はおそらく少し違う。今を見ることでしか、前に進めない気がしている。今をちゃんと見つめていないと、崖から落ちてしまうようなそんな感覚で生きている。

数日前、私は私のためにお弁当を作っているというnoteを書いた。紛れもない事実だった。それが、初めてお弁当を作れない日を迎えた。作らないではなく、作れない。おかずまで用意したのに、お弁当に詰めることができなかった。今もなお、お弁当のおかずは冷蔵庫の中にいる。

明日が来るのが嫌でたまらない。歩いても走っても、先が見えない坂を延々と登っている気持ちになる。登っている最中で、「けいちゃん、もっとこう登ったほうがいいよ」と言われて歯を食いしばる。食いしばって、食いしばって、力がどこにも逃げてくれない。食いしばりきれず息を漏らすと「最近疲れてるね」とひとこと。自分は感情を無にして、愚痴もこぼさず淡々と着実にやっていくべき人なのだと思い知らされる。

私は、きっとそもそも不器用な人間だ。バランスがいい人間だとか言われるけども、それは必死にそう見せているだけで、本当はすごく不器用で飄々となんかしていなくて、いつも必死に食らいついてる。

数年前に、仲のいい先輩が「あまり親しくない人からは飄々としていて、器用という印象を持たれがちだけど、実際には人一倍悩みながら、何とか人生にくらいついている、人間味があって不器用な人だと思います。」と言ってくれたことがある。きっと、彼の言うとおりなのだろう。私はずっと不器用な人間だ。人間はそんなにすぐに器用になれない。

明日も変わらない日々が続く。少しの無理はしなくちゃいけないし、頑張らなくちゃいけないし、涙が出てもそれはそれとして前に進まなきゃいけない。

よく眠れない日々も続く。お酒を毎日少量飲まないと安心ができない日々が続く。未来のことは、相変わらず考えられない。それでも、私のことを人間味があって、不器用だと言った先輩が、最後に言ってくれた「そんなぜっきーがずっと愛おしくて、大好きです。」を支えにして今日も生きている。どんなにダメだと思っても、どんなに不器用でも、そんな不器用さを愛してくれる人がこの世界のどこかにはいる。

それが何よりの救いで、何よりの支えで、それが今の私を毎朝起こしてくれている。

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