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「安心は要らないんだよね」と、君は言った。

もう半年も前、五月末。当時付き合っていた恋人と別れた。聞かれるたびに話してはいるものの、半年も経つと顔やら声やら香りやら何から何まで記憶から消えていく。

そんななか、ふと、SAKANAMONの「猫の尻尾」の聴いた瞬間に思い出してしまった。初めて聴いた曲で歌詞をがっつり聴いていたわけではなく、メロディだけだったのだが、それでも思い出してしまった。

彼との別れは話すと長くなるけれど、簡単にいうと、同棲直前の審査も通ってあとは初期費用を振り込むだけというタイミングで「好きな人ができたから別れよう」という感じだった。相手は、五歳上のアラサーの女性、以前交際はしたことないけれど、別れ話の前日に再会したらお互い当時好意を持っていたことが判明して付き合うことになったらしい。で、別れ話を切り出された私。

思考が追いつかず、結局一週間は一緒にいたが、色々とあった末にもういっかとなった。そのきっかけの一つがタイトルにもなっている「安心は要らないんだよね」という一言だった。

彼はよく、「こんなに安心できる人は初めてだ」と口にしていた。私の暮らしの中には、心地よさが流れていたのだと思う。適度に片付けられた部屋。適切なタイミングで回される洗濯機。心地よい風と光が入る部屋と、そこに流れる好きな音楽。飲み明かした次の日は「やっぱり、しみてしまうよなぁ」などと言いながらお味噌汁を飲み、初夏は気持ちいい風の中で素麺を啜っていた。私の生活には、何ひとつ特別はない。そんな中での生活を彼は「人間やってる…」と言っていて、それを聞くたびにどこかホッとする私がいた。

私にとって、安心は日々の中にしか存在しない。小さな日々の積み重ねこそが安心であり、これが安心なのだと示してくれるものであると思う。

多くの人の場合、安心する場所や人というのは、実家だったり自分の家族だったりするのだろうし、生まれて初めて安心を覚える対象はきっと母親なのだろうと思う。

私にとっての安心を覚える場所、瞬間は、おそらく人と少し変わっている。一つ目は、キッチン。ニつ目は、部屋の床に転がっている瞬間。そして、三つ目は、空がよく見える出窓。いずれにしても、時計の音や風、換気扇の音など、日々がそこに感じられる場所。私にとって、安心とは日々がちゃんと続いている、これからも続いていくだろうと実感ができる場所や瞬間であり、それ以上でもそれ以下でもない。

だからこそ、彼が感じていた私といる時の安心とは、紛れもなく日々の中にあったと思っていた。

そんななかで言われた「安心は要らないんだよね」。安心は日々であり、そこにはそれを守っていた私がいた。ああ、そうか、そうなんだね、要らないのか。一瞬、なにかで糸がプツンと切れた音がした。

安心は日々だ。日々の積み重ねの上でしか成り立たない。それは、感性もそうだし、言葉もそうだと思う。それらは、“今日”の延長線上にしか生まれないものたちだと私は思うし、それらに遺伝子みたいなものが存在するのならば 少なくとも私の遺伝子も入っているはずだと思っている。

彼は、別れた夜に「けいちゃんの感性とか言葉とか、すごいなぁと思って付き合っていたけど、俺は手に入れられないんだなぁと思った。」と口にした。私のすべてをモノのように言うなよ、と思いながら「そんなの、当たり前じゃん。」と私は笑った。

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