呼ばれ方が、すこし変わっただけ。
桂子、桂子ちゃん、桂ちゃん、けいさん。
名字のあだ名も合わせれば、10個くらいはあるだろうか。私のあだ名はわりと多くて、それらそれぞれが私は好きだったりする。
私の仲のいいその人は、私を名字にさん付けして呼ぶ人だった。年齢は同い年だし、本当なら呼び捨てでも構わないのだろうが、私と彼が知り合ったのはお店で、私はあくまでお客さんだった。お互い名前こそ会話の中で知っていたが、どこまで行ってもお客さんと店員の関係。だからこそ、どれだけ仲がよくなろうとも私たちの間でさん付けが廃止されることはなかった。それはとても自然なことだったし、違和感は何も感じなかった。
ある日、彼とたまたまお店ではない場で会うことがあった。約束をしたわけでもなく(そもそも連絡先も知らない私たちは約束をするすべなどもない)、たまたま同じ場に居合わせただけにすぎない時間だった。それでも、彼は私に気がつくと手を挙げて合図を送ってくれた。いつもと違う場で見る彼はなんだか新鮮だった。
そして、帰り際、声をかけてくれる彼がいた。私はどうやら彼の存在に気が付かずに近くを通り過ぎていたようで、遠くから彼が声をかけてくれた。そのとき、彼が呼んだのはさん付けされた私の名字ではなく、呼び捨てされた私の名字だった。他の人だと思って一回目は気が付かず、二回呼ばれてやっと自分のことだと気がついた。
それから、私の頭の中には名字を呼び捨てしてくれた彼の声がずっと再生されていた。私はその声を思い出すたびにどこか嬉しくて、どこかくすぐったいような気持ちになっていた。
呼ばれ方は、その人との関係性を表すものだと思っていた。さん付けをし合っている私と彼の間には、さん付けをするなりの壁や溝があった。なんとなく踏み入らない方がいいであろう話の類とかがきっとあったのだと思う。だからこそ、その壁や溝がなくなったように感じる呼び捨てが、私にはとても嬉しかった。
もうきっと、彼とお店以外で会うなんていう偶然は起こらないのだろうと思う。だからきっと、彼がまたもう一度私を呼び捨てで呼んでくれる日も来ないのだろうと思う。彼が私を呼び捨てするときのあの感じを知ってしまった私は、もう一度呼んでくれたらいいのになとどこかで思っている。
呼ばれ方がその人との関係性を表すものならば、「こう呼ばれたい」とそう思うそれは私が望んでいる関係性を示しているのだろうと思う。
それに気がついてしまった私はいったいこれからどうするだろう。誰かとの関係性の変化は、何よりも怖いものだと思う。ゆっくり、ゆっくりと、季節が変わっていくようにこの関係性も少しずつ変わっていけばいいと思う。
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