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大切な家族に向けて

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家族について書いたnoteです
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#創作大賞2024

父の料理が、今日も私を救っている。

父の料理が、今日も私を救っている。

私がまだ幼かった頃、父は毎日料理をしてくれていた。離婚後再婚するまでのあいだ、男手ひとつで姉と兄と私の三人を育てた。再婚してからは母が料理をすることもあったし、私はどちらの料理も好きだけれど、人生で食べた食事の回数で言えばやはり父の料理が多い。

離婚後間もない頃は、慣れない家事、料理、それでもある仕事。きっと、父は何もかもが大変だったのだと思う。それでも父は私を幼稚園へ車で迎えにくると、車の中で

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親に会いに行くのは、いつも強がれるとき。

親に会いに行くのは、いつも強がれるとき。

「おお、おかえり」

そう言って玄関の扉を開けてくれたのは、半年ぶりに会った父親だった。もう長い間聴いていなかった「おかえり」にびっくりして、ただいまとはうまく言えず「やぁやぁ、久しぶりだね」と言った。照れ隠しだった。久しぶりの「おかえり」はなんだかやさしくて、少し泣きそうになった。

生まれ育った街にある私の家は、今は他の誰かに貸している。だから、私にとっての「帰省」は父方の実家か母方の実家のど

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それでもきっと、守られていた。

それでもきっと、守られていた。

最後に会ったのは、中学一年生。入学祝いがしたいからと言われて再会した。たぶんこのときは数年ぶりだった。その頃、自分が母親のことをどう思っていたかとかは覚えていないけれど、このときはまだ母親のことをお母さんと呼べていた。

あれから十二年。十二歳だった私は二十四歳になった。中学一年生だった私は、高校生になって、大学生になって、社会人になった。干支は一周まわっていた。この十二年間、連絡を取っていないわ

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私が知らない母親を、Facebookは知っていた。

私が知らない母親を、Facebookは知っていた。

この一月、私は実の母親と再会した。
その時の話は次のnoteを読んでもらえたら嬉しい。

それ以降、特別母親とは連絡を取っていない。もともと、新年と誕生日くらいしか連絡は取らないだろうとは思っていたからそんなものだとは思っていた。だから、特別思い出すことなんて何もなかった。

そんな中、六月から始まった企画メシに合わせて作成したFacebookのアカウントで「知り合いかも」に母親の名前があった。赤

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