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「恋」には落ちるが、「愛」には落ちない | 平野啓一郎さん 『一月物語』

「上杉達也は朝倉南を愛しています。 世界中のだれよりも。」

こんな言葉を異性に向かって放った日本人はどれだけいるのだろうか。ちなみに、僕は人生で一度もないし、これからもありそうにない。僕は寂しい人生を送っているのか…?いや、そうではないはずだ。

あなたのことが好き。あなたと一緒にいる時間が好き。あなたと過ごしている時の自分が好き。だから一緒にいたい。これなら、わかる。これなら、僕でも口にしたことがある。

「愛している」という言葉。これにものすごく抵抗を覚えてしまうのだ。

しばしば雑誌の恋愛相談などには、恋人や夫婦との関係を良好に保ち続けるために、相手をどれだけ大切にしているかを表現し続けようと書かれている。髪を切ったら「きれいになったね」と一声かけるとか、記念日を忘れずにとか。そして、大抵の場合、恥ずかしがらずに「愛しているよ」と声に出して伝えましょうというアドバイスが…。

お互いの想いを確認しあう時間をつくるのは大切だと思う。ただ、「愛している」という言葉は必要なのか? ここに著しく疑問を呈してしまうのだ。

これは「愛している」という言葉に対する気恥ずかしさ故だろうか。

このモヤモヤに気づきを与えてくれたのが、平野啓一郎さんであり、平野さんが書いた新書私とは何か 「個人」から「分人」へだ。

本の中で、平野さんは「愛」と「恋」の違いについて述べている。恋は「非日常」へ誘うものであり、愛は目の前にある「日常」を肯定していくもの。恋には落ちるが、愛には落ちない。それまでの僕は「愛している」という言葉を恋の意味で捉えていて、だから違和感を感じていたのだと思う。

そして、「恋」とは何かを考える時に、恋を最も象徴している小説が平野作品にある。それが『一月物語』だ。同時に、平野作品のなかで、僕が一番「カッコいい」と思う小説でもある。

今回は、『一月物語』の魅力に触れながら、恋と愛の違いを考えていきたい。


月が綺麗なのか、死んでもいいのか?

さて、恋と愛を考える前に、もうひとつ触れておきたい言葉がある。

「Love」だ。

恋も愛も英語訳するとLoveになる。一方、Loveを日本語訳にすると、恋と愛に別れる。Loveのほうが恋や愛より抽象的な言葉だということがわかる。

そもそも「恋愛」という日本語は、明治になって欧米で使われるLoveの概念を日本語で表現するためにつくられた造語がはじまりだそうだ。つまり、Loveという概念が日本に輸入された明治から、愛と恋が親戚のように見られる風潮が強くなったのではないだろうか。

ただ、明治時代の知識人の人たちがLoveの概念がいまいち理解できず、その翻訳に苦慮していたことは、様々な逸話から見てとれる。

英語教師をしていた頃の夏目漱石が、「I love you」を「我君を愛す」と翻訳した生徒に対し、「日本人はそんなことは言わない。”月が綺麗ですね”とでも訳しておけ」と言った有名な逸話がある。

一方、二葉亭四迷は翻訳中に出会った「I love you」の日本語訳に苦渋して、”死んでもいい”と訳した逸話もある。「あなたと一緒になれるなら、死んでもいい」「あなたと一緒になれないなら、死んでもいい」。どちらの意味だろう…。とにかく切実で逼迫したニュアンスを帯びている。

明治時代に日本に輸入された概念のひとつに「個人 individual」がある。個人主義という言葉も同時に生まれるわけだが、個人と個人が愛し合うLoveという概念が、当時の日本人にいかにピンとこなかったのかが、ここから読みとれる。

このように「Love」が様々なものを内包する抽象度の高い言葉として、明治以降の日本に浸透したことで、恋と愛がごちゃ混ぜになりやすくなったのではないだろうか。


非日常を求める「恋」。 日常を愛しむ「愛」

では、「恋」と「愛」の違いとは何か?

平野さんは、『私とは何か』で違いをこう整理していた。

 「恋」とは、一時的に燃え上がって、何としても相手と結ばれたいと願う、激しく強い感情だ。人を行動に駆り立て、日常から逸脱させてしまうが、継続性はない。ヨーロッパの概念では、「エロス」に対応するものだ。

 他方。「愛」は、関係の継続性が重視される概念だ。激しい高揚感があるわけじゃないが、その分、日常的に続いていく強固な結びつきがある。「エロス」に対して「アガペー」という概念に対応するもの、とここでは整理しておこう。

恋愛について考えると、恋からはじまって、愛へと深まっていくのが理想とされている。だが、非日常を求める恋と日常を愛しむ愛。この相反する概念が、地続きに続くなんて奇跡的な確率のように思える

そして、平野さんの「恋愛小説」に対する指摘が面白い。

 いわゆる「恋愛小説」で描かれてきたものは、圧倒的に恋の方だった。互いに恋心を抱きあっている男女が、様々な障害のために、なかなか結ばれないというストーリーは、『ロミオとジュリエット』から、今日のテレビドラマに至るまで、散々繰り返されてきている。なぜなら、登場人物は情熱的に行動しやすいし、二人が結ばれるという「愛」の状態がゴールとして設定されているため、展開を辿りやすいからだ。

 他方で、愛を描こうとすると、話は日常的に継続している関係が中心になるのだから、ストーリーの起伏をつけることは難しく、情熱的な場面も描きにくい。わかりやすいのは、それが非常に特殊な事情で続いている場合、あるいは、愛の終わり、崩壊というゴールが見据えられている場合だ。

これは鋭い指摘だと思った。そもそも、「愛」という日本語は、仏教用語からきているらしい。「仁愛」や「慈愛」といった、周りにいる人々を日々めぐみいつくしむことが、愛の本来の意味なのだ。確かに、愛では起承転結の起伏のあるストーリーを描くのは、なかなか難しい。


恋に殉じる純度100%の恋物語

以上を踏まえると、『一月物語』は完全になる「恋物語」だ。

愛を目指して、恋の嵐をくぐり抜ける「恋愛小説」ではない。ただただ恋に殉じる純度100%の恋物語だ。恋を突き詰めると、愛が地続きに続くなんて本来的にはありえないことを証明するかのような作品でもある。

では、一月物語とは、どういう物語なのか?

一月物語は、明治30年初夏に熊野古道に近い山中で起きる怪異譚を描いていて、文庫本にして200ページ以下の短編以上長編以下といった小説だ。

主人公は、25歳の眉目秀麗な青年詩人・井原真拆(ませき)

その容貌は悪魔(サタン)や阿修羅に比することが出来るほどの異様な美しさで、それは真拆の中にある「情熱」故だった。

真拆の情熱に殉じる激しい内面を説明する文章を紹介したい。

 真拆自身、早くから、この情熱の感覚を有していた。それは云わば、彼の宿痾(しゅくあ)の如きものであった。真に生きていると感ずる為には、漸々と日々を積み重ね、しかしてその果てに得られる所のものを期すると云うのではなく、何かしらの瞬間の超越、持続しない、一個の純粋な高揚を、一撃の下に、生活の総てを打ち破って顧ぬような苛烈な衝動を体験せねばならなかった。血は、煮え湯のようにたぎらねば、たちまち滞って変色し、凝固してしまう。血は、苦痛を伴うほどに激しく行使されねば、生温い倦怠の底に沈んでしまう。

 情熱は、熱く溶けて黄金色にかがやく硝子(がらす)の一塊である。生活に用いようとするならば、それに役する凡庸な形を与えて、手に触れ得るほどに、素早く冷やしてしまわねばならない。残される光は細やかである。しかも、それだにやがては失われ、手垢(しゅこう)に曇りゆき、そしておそらくは、日常のまったく無意味な瞬間に、不意に割れて砕けてしまうのである。

 真拆はそれを潔しとしない。さりとて、いかなる形を以て己の情熱を成就させるべきかが分からない。覚悟はある。しかし、殉情(じゅんじょう)の徒たるには、彼は何時でも知的であり過ぎるのである。

真拆にとっての情熱とは、自分の生活の総てを打ち破って顧ぬような苛烈な衝動を体験することであって、瞬間的な超越をすること。されど、その己の全てをぶつける対象が何かわからず苦しみ続けていた。

真拆は末期の自由民権運動に触れて、政治的行動において自分の情熱を成就させようとするも挫折をし、その後も思想家、小説家、大商品と様々な道を模索するも、全て失敗に終わる。

その苦悩ゆえか、真拆は10代の頃から、しばしば「神経衰弱」に苛まれてきた。ちなみに、この神経衰弱とは明治大正時代に流行った言葉で、疲労感、不眠、頭痛、目まいを訴える症状らしい。明治時代は社会の変化が激しく、国家的には富国強兵、個人的には立身出世というスローガンが掲げられて、競争社会の都市生活者は心を病むことが多かったそうだ。

そうして情熱の矛先を探して辿りついた末が詩人で、現在の真拆は詩作に全ての情熱を注いでいる。

真拆は総じて自分の書いた作品には満足していて、詩壇からの評判も悪くはない。情熱は創作を通じて上手く処理されているように思えていた。にも関わらず、最も詩興が高じ、最も多作である時にでさえ、しばしば激しい神経衰弱に陥ってしまう。これが、真拆には理解できなかった。

そんな気鬱を慰める術として、真拆はを常としていた。行き先は大抵決まっておらず、気の赴くままに列車に乗り、飽きれば降りてその地を観てまわる。そんな旅先で出会った怪異譚が一月物語では描かれる。


真に「浪漫主義的」な感覚を持つ真拆

詩とは自分の感情を言葉に置き換える行為だ。でも、本当に自分が心から美しいと感じた時、その時の感情は言葉に到底できないのではないかと真拆は考えている。むしろ、言葉にできないものと出会うことを切に願っている。

情熱の矛先として詩作に興じつつも、自分が求める超越的な体験に出会った時に言葉は無力になる。そんな矛盾や、詩作における限界を考えるが故に、創作に対して鬱々とした気持ちが湧いてくるのではないだろうか。それが、読み取れる箇所がある。

 自然の風物に対して、真拆は、或る神秘の感覚を有している。それは、当世の浪漫派詩人の中にあって、気質としては、ひとり彼のみの有し得た真に浪漫主義的な感覚であった。

 真拆は、いかなる言葉も、自然の最も深遠な美に到達した瞬間には、悉く無力となるであろうと信じている。その瞬間には、詩は決して生まれないであろうと信じている。それは例えば、法悦(ほうえつ)が理性の気難しい従僕たる言葉を呑み込んで、思考を奪ってしまうからではない。真拆の考えでは、そこへと至る瞬間、認識主体である人は、対象である自然と劇的に一致して、認識そのものが不可能となってしまうからである。語るべき自分と語られるべきものとの区別がなくなって、一つになってしまうからである。

 真拆には、詩人として一つの重大な疵(きず)がある。それは彼が、そこから戻って、ふたたび言葉に留まろうとする努力を本質的に欠いていることである。しかも、その欠如は、怠惰の故ではない。寧ろそれこそが、その一体の体験こそが真拆の真の願いなのである。

この箇所を読むと、真拆がいかに超越的な体験を求めているかがわかる。そして、その前では全てが無力であると。語るべき自分と語られるべきものとの区別がなくなって、一つになること。これが真拆が追い求める情熱の矛先なのだ。

もうひとつ、真拆のキャラクターを理解する上で、印象的な箇所を紹介したい。過去でも未来でもなく、今この瞬間の体感に真拆が重きを感じていることがわかる文章だ。

 小屋の壁に背をもたれて、悠遠(ゆうえん)の山々を眺めながら、真拆は先ほどから、盲人の生活というのものを想っている。

 ぜんたい人は、常に視覚に予告されながら生きている。例えば道を歩く時、その百歩先に猶も道が見えるならば、進むべき世界は、既に予告されていること云える。この時人は、予告された空間を、一方で、予告された自分自身の存在と錯覚し得る能力を持っている。与えられた世界の像の慥(たし)かさに、数秒後かに、数分後かに、自分がそこに存在することの慥かさを求めることが出来る。空間の連続を、己の存在の連続に直感的に置き換えることが出来る。それ故に、世界と人とは、かえって常に予告に蝕(むしば)まれている。この瞬間が、予告に仕えているのである。

 しかし、盲人の世界は、手元にしかない。世界は決して予告されない。触れる瞬間に世界は初めて姿を表す。その一刹那にのみ、忽然(こつぜん)と存在して消えるのである。彼方の山は、ついに存在しない。それを存在せしめるのは、そこに至って、実際に踏み出した一歩ばかりである。そして、存在せしめられた所の山と、新たな交わりを結ぶ彼自身もまた、その時に初めて存在するのである。

 未来は決して侵蝕しない。その刹那、世界と人との交わりは、絶対的な筈である。

 或る厳格な緊張の下に、一瞬毎に新たになる世界と人との透徹した交わり。その驚愕。その幸福。

未来が決して侵食しない世界に憧れを抱く真拆。この文章を読んだ時、真拆は自分の体感に対して、ものすごくピュアな感覚を持っている人物だと感じた。


鞘はとうに捨て遣った、ふたたび納めることは出来ない!

一月物語では、真拆が旅で迷い込んだ山の中で、恐ろしく妖艶な高子という女と出会い、その姿や運命に魅せられていく。だが、高子は蛇の怪異で、その眼で見られた相手は死んでしまうという悲しい事情を抱えている。それゆえ、真拆は高子の後ろ姿しか見たことがない。

一度は山を降りた真拆だが、事情を知り改めて高子の元へ戻る決断をする。

ここから物語は怒涛のクライマックスへと盛り上がっていくのだが、高子の元へ戻るために山中を駆け上がる真拆の心中を描いた文章が、真拆というキャラクターの本質を鋭く突いているように思う。

『俺は、死ぬ為に走っているのだろうか?』

 眩暈に襲われる度に、真拆はこう自問した。

 既に久しく、女を恋い慕ってきた。しかし、今ほど劇しくその姿を求めたことはない。それは、女将の話に、女の睛(ひとみ)が死を宿していると信じたからである。その睛が、火箭(かせん)のように、鋭く、熱く、自分の命を射抜いてくれると信じたからである。

『殺されることが、俺の願いと云うのか?』

 こう自問して、真拆は激しく首を振った。ならば、女の面を見る為には、その眼差に殺されることも已むを得ぬと諦めているのか。それも違う。真拆は、死を逃れることを微塵も願ってはいない。却って、死を熾烈に望んでいる。女を手に入れ、その後に更に生が続くことは、真拆の最も恐る所である。女と死とは、その刹那、両(ふた)つながらに得られねばならないのである。

『ーー死ぬ為に走っているのではない、断じてそうではない!俺はその時、まさにこの命の絶たれんとする刹那、生まれてこの方終ぞ知らなかったような、生の瞬間を、その純粋な一個の瞬間を生きるのだ。行為が悉皆(しっかい)捧げられるその瞬間、来たるべき未来に侵されぬその瞬間。……それを齎(もたら)してくれるのが、高子だ。俺は、あの女を愛している。この上もなく愛している。世界には、愛したいと云う情熱しかない。愛されたいという云う願いは、断じて情熱ではない筈だ!それこそが、あのラッヴというものだ!

まさに「恋」そのものではないだろうか。人の行動に駆り立て、日常から逸脱させ、その後の継続性はない。日常的に継続していく「愛」を全く望んでいない。

こうして舞い戻った真拆に対して、それでも高子は真拆を殺すことはできないと対面を拒むのだが、そんな高子の心を溶かした真拆の大立ち回りがすごい!ここが一月物語の最大の見所だと僕は思っている。

その時の真拆の情熱的なセリフを紹介したいのだが、「これぞ、平野さん!!」という最高にシビれる文章となっている。

「私の愛は、どうか、どうか聞いて欲しい、私の愛は、一振(ふり)の剣だ、鍛鉄(たんてつ)の焔もそのままに、激しく熱せられて灼々(しゃくしゃく)と輝やく緋色の剣だ、しかしそれは、嘗ては、美し飾られてた鞘のうちの剣でしかなった、抜いて振り下ろせば、人をも殺し得たであろう、だが、徒にそれを証す必要があろうか、剣ならば、必ずそのうちに死を秘めている筈だ、一撃の下に殺し得る死を!

鞘はただ一度払われば好い、切れぬ剣ならばそれまでのこと!そして今、私はその剣を抜いたのだ、貴方の前に抜いてみせたのだ、鞘はとうに捨て遣った、ふたたび納めることは出来ない!

貴方はただ、その柄を握って私の胸に立てれば好い、そして、渾身の力を込めて突けば好い!深く、深く、彼方へ突き破るほどに!

何度読んでも、震える文章だ……。どこを切り取ってもカッコいい。

そうして、ふたりは最後を迎えるわけだが、一月物語はとても幻想的な世界観で描かれる小説で、どこまでが現実で、どこからが幻なのかの境界がわからない。そのため、終わり方も人によって解釈が別れると思う。ちなみに、平野さんは、幻想的で耽美な作風や文体で知られる泉鏡花の雰囲気を参考に、一月物語を書いたそうだ。


純度100%の恋は「カッコいい」

僕が『一月物語』が他の恋愛小説と違い、完全なる「恋物語」だと感じるのは、真拆と高子の死にざまだ。

『曽根崎心中』や『失楽園』をはじめ、いわゆる「心中もの」と言われる作品は、現世で一緒に生きたかったのに許されず、泣く泣く最後を迎えるものがほとんだ。だから、読者も「悲しい」「切ない」という感情を持つ。『ロミオとジュリエット』などの「悲哀もの」もそうだ。非日常である恋から、日常の愛へと形を変えることが叶わず、物語が終わってしまう。

だが、一月物語の真拆と高子の最後を見たときに、僕は最高に「カッコいい」と感じてしまった。「悲しい」「切ない」という感情は微塵も持たず、その最後に震えた。

それは真拆が長年の宿願であった完全なる超越や深遠な美に、到頭触れることができたからだろう。そして、その情熱が燃え盛った後は、もう何も望まない。その潔さに清々しさすら感じる。

この未来に期待するでもなく、目の前にある非日常に身を窶(やつ)す行為。これこそが純度100%の「恋」ではないだろうか。

一月物語を読み終わった後、平野さんが『私とは何か』で書いた恋と愛の違いを読むと、とてもしっくりとくる。

恋:一時的に燃え上がって、何としても相手と結ばれたいと願う激しく強い感情。人を行動に駆り立て、日常から逸脱させてしまうが、継続性はない。

愛:関係の継続性が重視される概念。激しい高揚感があるわけじゃないが、その分、日常的に続いていく強固な結びつきがある。


愛が満ち足りていても、恋は別腹なのか?

ここまで考えると「不倫の原理」も見えてくる。

パートナーも、家庭も大切にしている風なことを言っているのに、『昼顔』的な出来事に憧れを持つ人をよく見かける。そういう人を見ると、相手に対して不満があったり、相手から受け取る愛情が足りてないのかな……と思ったりもしたけど、そうではなかったのだ(場合によっては、そうかもしれないが)。

愛と恋は全く別もの。そして人間は無い物ねだりなので、愛が満ち足りていても、恋が欲しくなる時があるのだろう(もちろん「不倫を許そう」と言っている訳ではない)。

そして、冒頭で話をした「愛している」という言葉について。

愛は今ある関係の継続性を重視していく概念だ。だからこそ、「恋愛」に限らず、親子愛、兄弟愛、師弟愛、郷土愛……と様々なところで愛は使われている。それらの感情のいずれもが、短期的に燃え上がる「恋」の性質とは違う継続性が期待されている。

心が安らぐ。静かな喜びに満たされる。そういったものが愛なのだ。

僕は「愛している」という言葉は「恋」のニュアンスとして捉えていて、強い言葉だと思っていた。だから、「愛している」なんて言葉を日常で使ったら、「急にどうした!?」と相手にドン引きされるのではないかと思っていたし、自分には何となく相応しくないと感じていた。

でも、こうした思考の整理を重ねていくと、恋愛相談に掲載されている「愛しているよ」と声に出して伝えましょうというアドバイスも、あながち悪くないんじゃないかと思えるようになってきた。

・・・

あとがき

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 毎度言いますが、こんなに長い文章をここまで読んだ方とは友達になれそうです(笑)。

今回は、平野啓一郎さんの 『一月物語』を紹介させてもらいました。実は、平野啓一郎さんのファンの方でも、『一月物語』を読んでいる人が少なく、もったいないと感じていたんです。

『一月物語』は、平野さんのデビュー作であり芥川賞受賞作である『日蝕』の次に発表された2作目で、文庫しては『日蝕』とセットで発売されています。『日蝕』があまりにも有名なので、『一月物語』が「B面」のように見えてしまうかもしれませんが、『日蝕』に並ぶ超名作です。

おそらく、『マチネの終わりに』や『ある男』で平野さんを知った読者の人は、その文体の違いに驚くと思います。僕もマチネから平野さんの作品を読みはじめたので、「違う人が書いてる!?」と思ってしまいました。

ですが、読み進めていくと、この典雅な文体だからこそ醸し出せる味わいに病みつきになってきます。そして、何といっても平野さんの筆力がすごい!シビれる文章が続々と出てきます!

そして、一月物語の主人公の真拆のあり方は、どこかロマン主義を愛する平野さんを感じるところがあります。そして、創作に没頭すれば没頭するほど気鬱になり、その原因がわからず思い悩む姿は、平野さんの3作目となる『葬送』に登場するドラクロアを思わせます。

この記事が、『一月物語』および平野さんの作品を味わおうとする人の何かしらの参考となったら幸いです!

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井手 桂司
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