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子供を残し離婚するしかなかった、かつての女性たちを思う

2022年11月19日朝日新聞土曜日版を読みました。
山田洋次監督が映画を撮影中で、そのことと関連して亡き母親のことを語っていた。男尊女卑な父親と母親がうまくいっていないことは感じていたという。大好きだった母親に好きな人ができ、母が単独で家を出ていったのは、山田監督が大学生のとき。
瀬戸内寂聴さんにそのことを話し、弟がかわいそうだったと言うと、語気を強めてこう答えたそう。「しようがないじゃないの」「一人の女が幸せになる。そのために誰かが犠牲になってしまう。それが人間というものなの。どうしようもないことなのよ」
瀬戸内氏の人生を思うとさもありなん。そして、現代以上に、離婚が大変だった…家庭のために女が人生をささげるのは当然の勤め、という常識があった時代に、自分の子供を置いて出奔するということに、どれほど大きな覚悟がいることだったことか。本人の性格もあるとはいえ。
山田監督の母は60代で三度目の結婚をし91歳で夭逝。母親が亡くなる間際の言葉がいい。「洋次、私は、決して後悔してないからね」
40年近く昔の出来事を今もときどき思い出す。小学4年生くらいだったか、軽い知的障害のあった男の子のこと。両親が離婚して母親が家を出たことを聞いてから、その子に会った。何かで夢中に遊んでいるときにふと私を見つめ、「おかあさん、出て行った」とつぶやいた顔。その寂しそうな様子、今も心に刻まれている。が、同時に思う。どういう背景があったのかわからないけど、その母親を責められない、と。
今の時代でも、子供を置いて家を出る、というのは、酷いこととして母親が責められがちだし、離婚自体がもーっと珍しかった昔ならさらにきつかったはず。
が、祖母の世代…つまり大正、昭和初期の時代にさえ、子供を置いて離婚したという人そう珍しくはない。かつては、子供を後継ぎとして父親のもとに置いていくのは当然、ということが多かったらしい。戦後になり、子供を連れて離婚できるようになったことが離婚が増えた原因、という記述を読んだこともある。
祖母の妹のことを母から聞いたのはわりと最近。戦前近所に嫁いだものの、子供を置いて離婚した。単身京都に出て住み込み仕事を始めたらしい。その後は消息不明。周りの人は彼女を押しとどめようとしたが、「我慢できないほど辛いことがある」
昔々から、少なからずの女性が、厳しくとも、一人であるいは愛する人と生きる道を選んだ。自分の幸せを求め生き抜いたひとりの人間を、母性を楯に責めることは誰にもできないのです。

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