私の“美しいもの”は繊細なケーキ
昔、ある60代の女性が「とにかく死ぬまで美しいものに触れていたい」と話していて、ああ確かに、と最近よく思います。
美しいとは、自分にとって心地よいと感じるもの。
この場合の“美しい”は、空一面の星空とか朝焼けや夕焼け、快晴の日に山頂から見下ろした眺めとか、夏の光を反射する眩しい海とか…自然の崇高さに誰もが感じいるような、そうした類の“美しさ”ではなくて。いや、それもあるけど、それ以上に、人の手が入った美しいもの、って意味が強いかと。
人の手によって生み出されていくものが、人の心に与えるパワーはとてつもなく大きい。私たちの周りに、無数にある“美しさ”。無自覚であっても、誰もが美しいものに支えられています。
たとえば、お気に入りの洋服や靴やバックやアクセサリー…身に着けているだけで、自分にプラスのエネルギーが付加されるのがわかる。
その他なんでも、音楽でも絵でも、人が生みだしたものすべてに作り手の“心”があって、それに自分の心が感応したとき、何ともいえない幸せが広がっていく。そのセンサーの仕様や感度は人により違うけれど、大部分の人が“とても美しい”と感じるもの…それが、文化として根付いていったりするんだろうな。
人間が、永年の歴史の中で創り出してきたものには“自分以外の人にも美しい心地よいと感じてもらいたい”という願いが込められている。それは、他者を思う気持ちそのもの。
特別高尚なものでなくてもいい。自分にとっての“美しいもの”を意識して過ごすのは、心がやすらぎ潤います。
気分が欝々としたり、怒りや悲しみに心が塞ぐとき、私は、きれいに作られたケーキを、よく食べます。パウンドケーキやマフィンやドーナツのようなざっくりとしたものではなくて(もちろんこれはこれで大好きだけど)、芸術的に美しいものをひとつふたつ。
家では絶対に再現できない、繊細な味と見た目。見ても食べてもうっとり。美しいケーキを食べるという美しい時間がそこに創られる。
映画?ドラマ?何かで知った素敵な言葉「ケーキを運ぶとき人は少しだけ天使」。美しく作られたケーキを運ぶときは誰もが慎重になる。決して、その美を侵してはならないという気高い精神。
日常の中で、自分の気持ちをあげてくれる“美しいもの”を、持っておくのは大事と思う。
今日は、ストラスブルジョアの、ティラミスとオペラです。