バカみたいな話だけども、小説を頼りにするわけ
いつだったかどこだったかまったくうろ覚えなんてもんじゃなく曖昧な記憶なんだけれどもいつか聞いたか読んだかした話で、
この世はお釈迦様だかブッダだかの修行の地であり、一人で全人類の人生を体験しているんだそうです。
うろ覚えなりに何だかこの話は心に残っていて、たまにこのことについて考えます。
僕は釈迦様の修行の一部
つまり、僕は今僕という人生を体験しているお釈迦様の途中にいる一部分であって、僕にとっては今、僕という人間を通して世界を見ているつもりだけど、これはお釈迦様が今体験している過程の一つに過ぎないというわけです。
というわけですと言われてもまだよく分からないと思うのですが、要するに僕が言いたいのは、僕は全然、僕自身じゃないってこと。僕は全然個人じゃない。
さらに意味が分からなくなってしまったかもしれません。
ここからは僕なりの理解ですけど
お釈迦様が僕をたまたま今経験しているだけで、僕の苦しみも喜びも、僕というソフト固有の設定であり、本当にゲームソフト(今の場合僕)をたまたまハード(お釈迦様)に差し込んで、再生しているだけに過ぎない。
再生しているだけとは言ってもゲーム(修行、制約の中で苦しみながら喜びを見出す方法の模索)だからある程度操作はできて、あっちに行くとかこっちに行くとか、あれをするとかこれをするとかを選ぶことはできる。
その自由度がほとんど無限大に感じるからこそ僕は僕の意思でやりたいことをしている、と錯覚できます。つまりめちゃくちゃ没入感の強いゲームをプレイしているお釈迦様と同時に在る、ということです。
どれくらいスピリチュアルを信じるか
あ、ちなみに僕はこういう「考え方」が面白いな、好きだなって思うだけで、「私たちはお釈迦様と共にあります」と言って触れたいわけではありません。
こういう話は信じていないと同時に信じている、というスタンスで、というか信じるも何も「在るんだな」と思うだけです。
勝手な偏見ですが、小説を読むことを好む人はこういう中立的な考え方を持っている方が多いのではないでしょうか。
宗教を扱った小説も(当然登場人物も)たくさんありますし、「宗教」という風に形になっているものでなくても強固に信じているものは人それぞれたくさんある。
そういうものを観察すればこそ、別にそういうストーリーの中にいる人のことを否定しようとは思わない。
おそらくここまで読んでくださった方もほとんど同じスタンスでしょう。
ワンネス
それこそスピリチュアルな文脈で「ワンネス」という概念があるようです。
潜在的に人類みんな繋がっている、という考え方です。
漫画もアニメも見ていない方は分からないかもしれないので申し訳ないですが『進撃の巨人』でユミルの民と呼ばれる人々が「道」を通して交わる「座標」というものがありましたね。
その道を通してユミルの民は全員が繋がっており、それぞれ個であると同時に源は一緒だというわけです。実際この「道」を通して情報を共有する描写もありました。
まあこんな感じで、僕ら全員、深層のどこかで源は一つであり潜在的に繋がっていると。
確かに、詳しくは今話しませんが、人類みんな一緒に成長していってる感じがするな、とは思います最近。
あらゆる事件や出来事を通して、それを共有し話し合い、という経過を経て少しずつアップデートしているのかもしれません。スピリチュアルな話ではなく科学的な理由で、出来事を共有する速度と確度が高まったために倫理観や技能が全体で同時に高まっている感を持っているのかもしれない。
つまり学びの精度があがった。
しかしそう考えれば、地球上に人工的に張り巡らされたネットワークが「進撃の巨人」で言うところの「道」であるのではないか、とも言えないでしょうか。
そして科学の発展が「共有」の速度と確度を高めた、という考え方もできますが、同時に「そもそもみんな同時に経験を共有できる状態」を知っていたからこそ、そういう発想を潜在的に持っていたからこそ、個々にそういうものを作り始めた、とも考えられる。
ネットワークもまだ全然過渡期というわけですね。もしくは代替機械。
お釈迦様が「自分」を経験している、という話の矛盾点
話がどんどん変わっていってしまうので本題に戻ります。
とにかく「ワンネス」みたいな概念があるとして、これは僕ら個であると同時に源は一つですよ、ということで今は了解してほしいです。
あ、ファイナルファンタジー7のライフストリームっていうのもこの手の話ですかね……あれは生命エネルギーの循環という感じだから多少異なるのかな……
また脱線するので言及するに留めますが、このように創作の場面では本当に、実はみんな繋がってますよ、みたいな話はよくあるなと思います。
で、僕は僕を確固とした個人、独立した人間で人格でと当然思っているわけですが、本当はお釈迦様が途方もない時間をかけて行っている修行の一場面に過ぎないと。
当然矛盾というか、一つ疑問が生じます。
今は僕を経験しているけど、僕が見ている他人をお釈迦様はいつ経験するの?ってやつです。
だってお釈迦様は僕で五十年とか百年とか使うわけでしょ?それから次の人へ、となったら、僕とかかずりあってる間に経験できない人が出てきてしまうじゃないか。
だから時間の概念を忘れなければなりません。僕はまあ普通に寿命を全うすれば80年とか僕をやることになるかもしれませんが、その時間、お釈迦様にとっては進んでいるわけではない、と考えなければなりません。
時間の概念から解き放たれた場所で、僕を80年とか体験し、僕と同時代に生きている人の体験もする。
途方もない時間をかけるというのはそういうことです。修行とはそういうことです。全人類の生を全うする苦行なんてもんじゃない苦行をお釈迦様は行っている。
じゃあ、僕が今他人を見て、あんな経験したくないなとか、どうしてああいう言動をするんだろう、とか思っているのは全て、いずれというか同時にというか、結局は自分の経験なわけです。
軽蔑して憚らない人の人生も、尊敬してやまない人の人生も、意識的にお釈迦様と同化して見ればすべて自分の経験と言えてしまう。
あんなことできて羨ましいなーって思うあの人も、あんなことして恥ずかしいなーと思うあの人も、全部お釈迦様の一部分で、経験であり、それはいずれなのか今まさになのか分からないけど「自分事」として共有される出来事でもある。
そういう意味で他人はいない。マジでいない。
待てよ、本当にいないのかもしれない。お釈迦様は今「僕」に集中していて、僕にしか意識を備えていない。だから僕が見る他人は全て僕の意識が作り出した幻影であり、全て僕のため、僕の経験のための他人。
他人は全てゲームで言うところのNPC(ノンプレイヤーキャラクター)と考えることもできる。意識があり、人生があるように見えて、実は設定されたプログラムでしかない、みたいな。
となれば、あの人羨ましいなーと思う自分を見ているだけで、あの人恥ずかしいことしてるなーって思う自分を見ているだけで、今まさに「自分」の経験を蓄えているだけじゃないか、とも考えられる。
小説を頼りにしている
で、本題。おっそいけど本題。
ここまでの話、ちょっと怖いですよね。僕は怖い。悟れちゃいそうで怖い。本当に僕しかいないの?じゃあこれは今なんのために書いてるの?自分のため?いやでも確かに、完全に他人のためってわけでもないよな。
自分の考えや体験を記述するこの動作は、「進撃の巨人」で言うところの「道」に提供するためにやらされていること?
あ、WEB上に垂れ流すってそういうこと?
ネットワーク、道、他人の経験と思考にアクセス……ああ
他人はいないとか、永劫人生を経験しつづけて、全ての感情を味わうみたいな考え方は怖い。好きだけど、マジでそう、と思ってしまうと怖い。
フィクションの世界であれば魅力的な話題だし、土台となる概念かもしれないけれど、やっぱりどこか、現実はもっと現実的であってほしいとも思う。
身も蓋もない世界であってほしいとも思う。
僕は意思を持っていて、他人も意思を持っていて、それぞれの人生があって、寿命を迎えたら死んで、その後はない。他人は他人で、自分は自分、と思いたい。
さて、なんで?と思われるかもしれませんが、ここで小説、フィクションの存在がやってきます。お察ししているかどうか分かりませんが、ゲームなども好きなので幅広く、フィクションの世界の話。
もし仮に、ここまで書いてきたことが真実だとしたら、僕は僕であると同時に他人であったり、僕の自由意志は全て一か所に通じていたりして、なんだか操作されている気分になります。
すべてやらされていて、導かれている。僕は僕という人生から逃れることはできない。それが怖いと感じることもあれば、正直救いとなることもある。でもどう考えるかも全てどうでも良くて、僕はとにかく僕を経験する他ない。それはいずれにしても「デカい意思」が経験する欠片でしかない。
加えて、僕は他人が本当に居るのか、意識を持っているのかを体感することはできない。NPCと言われても否定する術がない。
いわゆる「哲学的ゾンビ」の話になる。他人はただ意識があるように振舞っているだけで、つまり僕にはそう見えるというだけで、本当は中身がからっぽなのかもしれない、という考えが否定できない。
つまり当然在ると思っていた他人が、途端にフィクションになってしまう可能性があるのです。
では、そもそもフィクションな存在である小説内の人物はどうでしょうか。
彼らには意識がないし、自由意志もありません。完全に張りぼてです。それは間違いない。
しかし、他人よりよほど意識や体験を共有できるという意味では確固とした存在なわけです。
それはお釈迦様がこなす必要のない、修行の外にいる人物であり、比較的短時間で「終わり」を迎える存在です。
それは有体にいって「息抜き」であり「癒し」なのだと思います。
そういう感じで、バカみたいな話だけども、小説を頼りにしているわけです