#1 なぜ、「めんどくさい」の哲学なのか?
めんどくさいの哲学 #1
めんどくさいの哲学というタイトルを付けたんですが、ちょっとおおげさな気もします。けれど、小学館の『精選版 日本国語大辞典』を見たら、哲学とは、「とらわれない目で事物を広く深く見るとともに、それを自己自身の問題として究極まで求めようとするもの。」とある。「とらわれない目で」というところがいいし、「自己自身の問題として」というのもうなずける。ぼくはこれから、めんどくさいということを「とらわれない目で」「自己自身の問題として」考えていきたいと思います。
めんどくさいについて考え始めたのは、二人の息子たちがいまうちにいるからです。彼らはそれぞれ、一旦東京の大学に通うために家を離れたのですが、初号機(長男)は大学院を卒業し、弐号機(次男)は大学を中退し、なんだかんだあっていまうちにいます。仕事にも就かず、うちでごろごろしている。27歳と23歳。まあ、かなりいい大人というやつです。彼らの友だち、同級生たちは、何らかの職についていたり、アルバイトをしていたりしています。だが、ぼくの息子たちは働かず、もんもんしてるのか、してないのかわかりませんが、ちょいちょい家の用事の手伝いをしたりしながら、次のフェイズへと行動を開始する気配がない。これはさては、ニートとかいうやつなのか? ぼくの息子たちは、ダブルで同時にニートに突入したのであろうか。いや、ニートは突入するものなのか、それすらも定かではありませんが、引きこもるわけでもなく、朝食も昼食も夕食も、呼べばちゃんと出てきて、おいしく食べ、さらに夜、ぼくが翌日のお弁当の調理をしながら酒を嗜んでいると、ちょろっと出てきて、おれも飲もうかなとか言って、いろいろ話をしたりする。
しかし、そうやって話をしていると、彼らも決してニートになろうと考えているわけではないことがわかります。母親からもちょいちょいツッコミが入っているせいもあってか、働きもせずに何やってんだという世間の目も気にしており、そんな目にさらされることからは早く卒業したいとも言う。
だが、動かない。気がつけばスマホでゲームをしたり、動画を見たり、友だちとネットでゲームに興じたりしている。
これはどういう思考のメカニズムなのだろう? という疑問がふつふつと湧き上がりました。独立をしたいと思い、しなくてはいけないと思い、いまのニート的生活は良くない(迷惑をかけている)とも思っている。はたから見れば、そこから脱出するために、就職先を探すなり、やりたいことを探して行動を起こせばいいのに、と思います。しかし、なにもしないのはなぜ? と考えたときわき上がってきたのが「めんどくさい」というキーワードでした。そうだよ、めんどくさいだ。めんどくさいってやつは、どんなにやばいときにも現れて、われわれの行動にブレーキをかけます。めんどくさいの前では、どんなピンチも太刀打ちできません。だってめんどくさいんだもの。
さて、めんどくさいのことを考えたら、彼らを叱責してばかりもいられなくなります。返す刀で我が身を振り返らずをえません。そう考えるとぼくは、めんどくさいに関しては、かなりのベテランです。50余年の人生で、めんどくさいがいろんなことにブレーキをかけてきました。学生時代勉強しなかったことも、行きたかった大学に落ちたことも、入った大学で留年したことも、就職活動をろくにしなかったことも、入った会社を2年で辞めたことも、その後2年、実家でうろうろしてたことも…と、数え上げたらきりながありません。こうやってあげつらったことってなかったので、あらためて思いかえすとなかなか冷や汗が出ます。この人生はすべて、めんどくさいの集積でできていると言っても過言ではありません。
というわけで、このめんどくさいのことがすごく気になってきました。息子たちはなぜ、めんどくさいのだろう? それってどうにもならないのか。ぼくは、自分のめんどくさいの結果で今日にいたってるのですが、めんどくさいをなんとかしていたら、違う結果になっていたのは明らかです。だとすれば、息子たちがいま、そのめんどくさいとの付き合い方を習得すれば、これからの人生が変わっていくのでは? というわけで考えはじめたのが、この『めんどくさいの哲学』です。
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