読書感想文 小説「野生の棕櫚」を読んで映画「パーフェクト・デイズ」を鑑賞すると
映画「パーフェクトデイズ」の主人公(役所広司)は劇中でフォークナーの小説「野生の棕櫚」を熱心に読んでいる、ヴィムベンダース監督が意味もなくこの小説を引用するとは思えないので読んでみた。
この映画をこの小説を読んだ後に見直すと、映画「パーフェクトデイズ」は評論家が言うような”そこにある自然や人をあるがままに見つめた作品”とか”ミニマリズムの形式で人生の影と美しさを描いた”ような映画ではない気がしてくる。
「野生の棕櫚」と言う小説は、若い医者が夫と子供がいる女性と不倫をしてアメリカの果てに逃避行する話と、囚人が懲罰労働中に洪水に巻き込まれて、洪水から逃げている途中で妊婦を助けてそのまま小舟でサバイバルする二つの物語が交互に進行するという構成で書かれている。でも二つの物語には直接的な関係はない。
男女の不倫物語の方は1939年に発表された小説としては進歩的なのかもしれない、女性は夫とふたりの子供を捨て、男性は医師としての人生という未来を捨て世の中からドロップアウトする。物語の途中で世間から逃亡したはずの男性は何気なく書いたメロドラマの小説が売れ始めて、女性もキャリアウーマンとして成功し始める。
ここまでは割とある不倫恋愛物語だと思う、でもここで男性はこういう資本主義的な生産性に支えられたような恋愛に何も価値はないと自分たちの恋愛を断罪する、もちろん女性も同意する。
ふたりは中産階級の市民としてそこそこ幸せに生きることが出来るのに、
それを捨てて寒さが厳しい雪深い炭鉱で働くことを選ぶ
(緊急時の医者として)。
たぶん、この小説の男性と「パーフェクトデイズ」の平山(役所広司)は同じ思想を持ち、同じような生き方を選んだ同志なのだ。平山は過去には高収入を得られる仕事をしていたと示唆されているので、そういうエリート的な人生をあえて拒否して亡き妻の愛と罪の意識?に殉じるために清掃業の仕事をして古い家に住んでいる。
だから平山は平凡な日常生活に人間と自然の美を見出してなどいない、平凡な日常の機微に自分の感情を投影して無垢な目で世界を見つめているわけでもない。
平山は「野生の棕櫚」の二人のように現代社会の合理的で利益追求型の生産性重視の世界の価値観に自分たちの恋愛が穢されることを拒否している、もしかしたら太宰治の世界観にも近いのかもしれない、平山もこの二人も心中するような想いで決然と社会のレールから外れている。
「野生の棕櫚」の男性は作中で怠惰な生活から文化が生まれ、人間性が深化すると自説を語る、平山も彼らのような強い意思を持って質素な生活をしている。
「野生の棕櫚」のもうひとつの物語は、ほぼ氾濫した川を小舟に乗った若い囚人の男性と妊婦(途中で子供が生まれて三人になる)が必死で生き延びる描写だけで進む。
初めはなぜこの物語をあの二人の恋愛物語と交差して書いているのかわからなかった。でも、ふたつの物語とも生きるか死ぬかの極限で男女が必死に生きる話なのだ、片方は自然災害で、もう片方のカップルは自分の意思であえて洪水の中をふたりで突き進むような恋愛をする。
平山もそうなのだと思う、亡き妻とあえて洪水の中を生きている。これで映画の最後の平山の悲しそうな表情の意味が理解できる。
だから何だという意見もあると思う、この映画は「野生の棕櫚」を映画化したわけではないので、だけどヴィムベンダースが監督なのだ、ロードムービーの巨匠の映画なのだ、そういう一面もあると思う。