映画感想文「シビル・ウォー」 まだ答えがあると信じられるだけ良い国
この映画のアメリカでの作品名にはアメリカ最後の日とは書かれていないようなので、この映画はアメリカの今の現状を危惧するような寓話ではなく、どちらかというと四人のジャーナリストによるアメリカ探しの旅、映画で言うと「地獄の黙示録」の後半に近い気がする。
四人のジャーナリストたちが旅の途中で見る光景は死体の山と激しい戦闘、だけどアメリカのテレビドラマや映画ではよく見る光景、ただ戦場はアメリカではなく外国で、アメリカ人は正義のために戦っているという設定になっている、でもこの映画のようにアメリカでアメリカ人同士が戦う場合は何が正義なのかわからない。
この映画を矮小化して喩えると、学校の教室で生徒が複数の生徒から暴力行為を受けていて、教室にいる何人かの生徒がこのことを教師に知らせるために職員室に向かったということになると思う。
国の内戦と教室での暴力事件を同一視するなという意見もあると思うが、本質は同じ気がする(実際に米国は学校で銃乱射事件が起きる)。
この映画の四人のジャーナリストは、大統領にこの国で何が起きているのか事実を伝えて、大統領がどういう決断をするのか、それを見極めるために、命懸けでワシントンDCに向かっている。
教室での暴力事件も生徒の力では止められない、暴力に対抗して暴力で止められるかもしれないが、それだとこの映画の状況と同じになってしまう。
だから、途中で殺されそうになっている人を見かけても主人公のリーたちは助けない。見て見ぬふりをしているのではなく、リーたちはジャーナリストだけど一人の市民に過ぎず、軍人でも警察でもないと自覚している。
その代わり国内で起きている事実を伝える義務はあると思っている。
ベテランの女性カメラマンのリー(キリステン・ダンスト)と二人の男性はそういう市民側に立つジャーナリスだと思うけれど、新人の女性カメラマンのジェシーは三人とは少し違うかもしれない。
もしかしたらこの映画の大統領と同じ側の人間かもしれない、この大統領は大統領の職務の一線を越えても行動することが正しいと考えている。
ジェシーは今までのジャーナリストとは違い、終盤はどちらかというとこの大統領に近い感覚で被写体に向かっている、新しいジャーナリストの誕生といえば聞こえはいいけれど、市民の枠から逸脱して銃を持って積極的に戦うQアノンに近いような市民とも感じられる。
リーは内戦状態の母国の光景に自分の過去の外国での取材や記憶がフラッシュバックして自分を疑っている感じがあるけれど、ジェシーは母国が他の外国のように市民同士が対立したり、内戦で殺し合うことに違和感のない、トランプ時代以降の若者という感じがある。
最後はジェシーが軍人を先導しているような、外から取材しているというより完全に戦争の中に入っている、ラブ&ピースと叫んでいたヒッピーたちとは正反対だけど、紛争と戦争に参加してハイになっている、そういう意味での新しい若者文化の象徴みたいな、ジェシーは新しい自由の女神なのか監督も迷っている?