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映画感想文「ピクニック・アット・ハンギング・ロック」 オーストラリアから消えていくイギリス

1900年という意味
1900年にオーストラリアの寄宿生女子学校で起きた謎の失踪事件。ハンギングロックと呼ばれる神秘的な岩山に女生徒たちがピクニックに行った際に、そのうちの三人の女生徒と一人の女性教師が神隠しにあったように行方がわからなくなり、小さな町は大混乱に陥る。

映画は実際に起きた事件に基づいて描かれたような印象を観客に与えるが、原作の小説は作者が見た夢から発想された完全なフィクションということのようで現実にはこのような事件は起きていない。だけど事実か創作かは、あまり重要ではないのだろう。

行方がわからなくなった女生徒三人は凄い美少女で、映画は彼女たちを幻想的に描いている。ヴィクトリア朝がまさに理想としたような一点の穢れもない美しい少女たち、その乙女たちが植民地であるオーストラリアのエキゾチックな岩山で神隠しにあったみたいに姿を消す。
これはオーストラリアからイギリスが消えていく時代を神話風に描いた映画なのだろうかと初めは思った。

この映画の時代設定である1900年はオーストラリアにとって重要な年で、1901年にオーストラリアはイギリスから事実上の独立をした。それに加えてイギリスのヴィクトリア朝も1901年に終わる、まさにひとつの世界が終わる直前の境界線のような年が1900年だった。あの女生徒三人と女性教師は過去のイギリス文化の象徴なのかもしれない。あの当時に生きていた人が感じたであろう喪失感の心象風景。

セーラという少女
だけどこの映画の真の主役はセーラという施設出身の女生徒だった。セーラはこの女子学校では異質の存在で、ある意味次の時代の女性の先駆者のような存在だった気がする。後見人の好意で寄宿生女子学校で教育を受けられるようになったセーラは行方が分からなくなった女生徒のひとりに憧れていて、その女生徒がいなくなったことで孤独を感じている。

なのに追い打ちをかけるように後見人が学費を滞納し始めて、そのせいで校長から虐めに近い扱いを受ける。音楽の時間に猫背の矯正という名目で壁にロープで縛り付けられたりする。このあたりで、もしかしたら美少女たちが異世界に迷い込むように消えた幻想的な中盤までの映画の世界はヴィクトリア朝のイギリスの黄金時代は”まやかし”だったと表現するための伏線だったような気もしてくる。

施設で育ったセーラがあの時代では夢のようなと言っていい寄宿生女子学校に通えるという機会を得て、でもセーラのその夢は無残な結末に向かう、ハンギングロックに起きた失踪事件と重ねられているのは、セーラの儚い人生だったのだろうか。もっと言えばヴィクトリア朝が理想とした上品な女性像は幻想だったということなのかもしれない。

それほどこの女子学校の女性校長は、上品に振舞っているけれどセーラに対する行為に一切品格は感じられない。あえて言うならこういう校長によって事実上社会から消された少女は山ほどいるということなのかもしれない(校長は殺していないが殺したも同然)

それにこの映画の感想を書くためにオーストラリアの歴史を少し調べたら、オーストラリアは1828年に全土がイギリスの植民地になって、その後1830年までに純血のタスマニア先住民は絶滅されたとウィキペディアに書かれていた。これを知るとこの映画の女生徒三人が神隠しのように行方が分からなくなったというのは、先住民からの視点だと意味が変わってくる。

神隠しに合ったようにオーストラリアから消えたのは純血のタスマニアの先住民で、実際は人の手によって消された。女生徒が行方不明になった後、学校も町の人の心も壊れていく、この映画はきちんとイギリスとオーストラリアの暗黒面を描いていたのだ。


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