古典擅釈(6) 人を見抜く目『井蛙抄』③
『梅尾明恵上人伝記』には、西行自身の言葉として次のように引かれています。
――私が歌を詠むのは、世間一般とは遠く隔たっております。
花・郭公・月・雪など、万物の感興に対するとき、何事もすべて虚妄であることは、目に触れ耳に満ちています。
けれども、歌に詠まれた言葉は、皆これ真言ではありますまいか。
花を歌っても実には花と思うことなく、月を詠じても本当の月とは思わない。
ただこのようにして因縁に従い、感興に任せて詠みおくものでございます。
空に虹が現れれば、虚空が彩られたように見えます。
白日が輝けば、虚空が明るくなったと見えます。
しかしながら、虚空は本来、明るいものでも彩られたものでもありません。
私もまた歌を詠むことで、この虚空のような心の内において、さまざまな風情を彩っておりますが、全くその痕跡もございません。
この歌とは、つまり如来の真実の姿なのです。
ですから、一首詠んでは一体の仏像を造り上げる思いをし、一句を考えては秘密の真言を唱えるのと同じ思いをしております。
私はこの歌によって仏法を体得することがございます。
もしこの境地に至ることなく人がみだりにこの歌の道を学んだならば、必ずや邪道に陥ることでしょう。――
西行にとって、和歌はひたむきな仏道修行に異ならぬものでした。
文覚は対面したその刹那に、西行に覇気ただならぬものを感じ取り、圧倒されてしまったのでしょう。
しかし、この説話から私たちが読み取るべきものは、西行の凄さではなく、文覚のそれではないでしょうか。
天中の渡りの武士のように西行を打ちすえることは、文覚にとってたやすいことです。
後白河院に強訴し、後鳥羽帝を罵倒し、三度の流罪もものともしなかった文覚が、ただ西行には頭を垂れました。
しかも、西行を打擲すると弟子たちに豪語していたのですから、文覚の面子もつぶれることになりかねません。
ですが、文覚は己の小さな面子にこだわるようなつまらぬ男ではありませんでした。
優れたものを率直に認め、謙虚に敬服の態度を示しました。
それは文覚の多くの資質と同様に、立派な能力であると言えます。