古典擅釈(4) 人を見抜く目『井蛙抄』①
偉人や傑物の物語を読むのは実に楽しいものですが、特に偉人が傑物と邂逅した歴史的瞬間を描く場面などに接すると、胸の躍る思いがするものです。
西行は平安末期に生きた僧で、『新古今集』には最も多い九十四首が入集した大歌人です。
俗名を佐藤義清といい、家系を八代ほどさかのぼると、平将門の乱を平定した鎮守府将軍藤原秀郷の名が現れます。
武勇の誉れ高い家柄の出で、彼自身も鳥羽院下北面の武士となり、仙洞御所に出仕しています。
北面の武士はエリート集団であって、単に武芸に優れていただけでなく、容姿の端麗と詩歌・管弦・歌舞の心得も求められました。
そのエリート武士義清が、何を考えたのか、二十三歳の時に地位を投げ出し、妻子も捨てて突然出家してしまいます。
友人の死に無常を感じたからとも、高貴な女性との恋が破れたからとも伝えられますが、はっきりしたことはわかりません。
出家後の五十年間の人生の大半は、高野山などでの仏道修行に費やされています。
その間、何度か回国巡礼の旅に出ました。
文治二年(1186)、六十九歳の高齢で東大寺の再興に必要な砂金勧進のため奥州行脚の旅に出た時には、鎌倉鶴岡八幡宮参詣の際(八月十五日)、源頼朝と対面しています。
『吾妻鏡』によると、頼朝は西行を営中に招き、歌道や弓馬のことについて尋ねました。
西行は、「弓馬のことは、在俗の当初、少々流儀を伝えておりましたが、遁世の際、秀郷以来の嫡家相承の兵法を焼失し、罪業の種となることでもありますゆえ、以来、心の底にとどめ残さず、みな忘れてしまいました。
詠歌は、花月に対した感動をわずかに三十一字に作るまでで、全く奥義を存じません。
それゆえ、どちらについてもお話し致したいことはございません。
しかしながら、畏れ多いお尋ねでありますので、弓馬のことについては知る限りお答え致したいと存じます」と答えています。
両人は終夜、語り明かしました。
退出の際、西行は銀作りの猫を贈られていますが、すぐに門外に遊ぶ子供に与えてしまったということです。
後の鎌倉将軍源頼朝にしてこれほどの対応をしたというこの記録は、武門における西行の評価がいかに高いものであったかをよく物語っています。
この後、西行は平泉で藤原秀衡と交渉し、砂金の寄進を受けることに成功しています。
翌文治三年二月十日には、頼朝に追われた義経一行が秀衡のもとに身を寄せています。
この時に英雄義経と西行が対面したとの説もあり、日本史の中でもスリリングな場面の一つです。
この西行が、奥州への旅の途中、武士らに辱められた話が『西行物語』に記されています。
西行は二十六、七歳の頃にも奥州に赴いており、この話がどちらの旅の時のものなのかはわかりません。
『西行物語』は西行の生涯を事実に沿って描いたような書きぶりをしていますが、虚実をないまぜにしており、そのままを信用することはできない書物です。
しかし、西行没後約九十年して成立した阿仏尼の『十六夜日記』には、この話への言及がありますので、あながち虚構だとは言えないものがあります。
――西行は東国に下る途次、遠江国天中の渡り(静岡県浜松市の東にある天竜川の渡し)という所で、渡し舟に乗った。
折よく出ようとする舟に便乗できたのだが、乗客が多く舟が沈みそうに思われたからか、一人の武士が「後で乗ったあの坊主は、下りろ下りろ。」と言うのであった。
「もめごとは渡し場の習わし」と思って、西行は知らん顔をしていたが、武士は馬の鞭で西行を情け容赦もなく打ちすえた。
西行の頭からは血が流れ、まことに無残に見えたが、西行は少しも恨んだ顔つきをせず、合掌して舟から下りたのだった。
この様子を見て、供をしていた法師が泣き悲しんだので、西行はその法師をじっと見守ってこう言った。
「都を出たとき、道中できっとつらいことがあろうと言ったのは、このことだ。
たとえ手足を切られ、命を失うことになっても、それは全く恨みに思うことではない。
もし武士であった昔の心のままにいたいのであるなら、髪を剃り衣を墨染めにするなどはもってのほかである。
仏のみ心は、みな慈悲を第一として、我らのように悪をなし善をなさざる者をお救いくださる。
だから、仇をもって仇に報いたならばその恨みは尽きることがないが、『忍辱の心で敵に報いたならば、仇はたちどころに消え失せる』と言うのだ。
……今後もこのようなことはあるだろう。
互いに心苦しいことであるから、そなたは都に帰れ」
こうして西行と同行の法師は、東西に別れたのであった。――
武芸に熟達した西行ですから、武士を屈服させることなどたやすいことであったでしょう。
しかし、武士であることを捨て、仏の道に志した西行は力で相手を従わせる方法はとりませんでした。
その西行の度量も、小人物に通じるものではありません。
大人物を理解できるのは、やはり大人物ということになるのでしょう。
〈続く〉