短編小説 | 紫陽花が泣いた日
文字数:7,027文字
担当するソフトテニス部の部活動が終わった足立佳代は、そのまま駐車場に停めてある車に向かった。普段なら職員室に寄って残りの仕事を片付けてから帰宅するが、明日は朝早くから部活動の大会で遠征する必要がある。加えて、佳代は最近、体力が衰えてきていることを感じていた。生徒からはかわいい、とよく言われているが、既に42歳。車の窓に写る自分の顔を見て思わず溜め息が出る。
車のエンジンを掛けてしばらくすると、ローカルラジオが流れてきた。佳代は普段、音楽を聴かない。かといって、車が静かなのは嫌だと思い、ラジオを流している。時間は午後8時前。夜のニュース番組が流れてきた。佳代は車を走らせながら何となくラジオを聞いていた。
「——次のニュースです。昨夜、午後10時頃、A市に住む佐田彰人さん、30歳が自宅アパート付近で倒れているところを発見され、その後死亡が確認されました。死因は——」
佳代は耳を疑ったのと同時に、心臓が止まりそうになった。走らせていた車を道路の端に寄せる。助手席に置いてあるバックから携帯を取り出し、さっきラジオで流れていたニュースのことを調べる。すると、2時間前に出たばかりのネットニュースを見つけた。無意識に携帯を持つ左手が震えていることを、佳代は気付いていない。佳代自身、内心では既に分かっていた。その予兆を感じていた。若しかしたら間違えではないか、という淡い願いも胸の内にあった。佳代にとって、それほど信じたくなかったニュースだった。
———昔の教え子が死んだ
* * *
空には雲がなく、青が一面に広がっている。緩やかな坂道が続く道の両端には、等間隔に桜の木が咲き誇っている。桜の花びらが散るこの道を、今年入学する生徒とその両親が上品な恰好で歩いている。今年赴任してきたばかりの佳代は、職員室の窓からその様子を眺めていた。
「綺麗ですよね、桜。しかも、その中を生徒とご両親が歩くとなると、入学式にはピッタリだ」
後ろから第一学年主任の山口が、席に腰を掛けながら声を掛ける。佳代は山口の方を向かずに、黄昏ながら返事をした。
「そうですね。前にいた学校でも桜の木はあったのですが、本数が少なくて寂しい感じがしていたんです。でも、B高校ではこんなにきれいな桜を見れるなんて」
山口は赴任してきてすでに6年目。毎年見ている景色のため、そこまで感動はしなくなっていた。しかし、佳代があまりにも目を奪われて桜を見ていたため、自分のことのように嬉しくなった。
佳代と山口の後ろから、パンパンと手を2回鳴らす音が響いた。
「さあ、黄昏るのはここまでにしましょう。そろそろ体育館に行く時間ですよ」
教頭が上機嫌で佳代と山口に終了の合図を出した。新たな生徒たちに出会えることを、心の底から楽しみにしているようだった。
新学期が始まり2カ月を過ぎた頃から、佳代は自身が担任を務めるクラスのある生徒を気にしていた。佐田彰人だ。
佐田は入学してからクラスに馴染めず、1週間経っても友人と呼べるクラスメイトはできずにいた。佳代は佐田の人見知りの一面を気に掛けてはいたが、時間が経てばおのずと解決するだろうと考えていた。
それから、2週間、3週間と過ぎていったが、佐田は孤立のまま。クラスでは既にグループが分かれており、クラスカーストも醸成しつつあった。
1カ月を過ぎる頃には、佐田は不登校気味になっていた。
教師歴5年目の佳代は、これまで佐田のような生徒を何人も見てきた。その生徒のほとんどは、生徒自身の内気な性格によるものが多い。一方で、両親からの虐待や経済的困窮の家庭環境によるものもある。佳代は、佐田の場合は後者だと感じていた。それは、生活保護受給世帯を理由に「学費免除申請書」を提出していたことが主な要因だ。
その日は佐田が登校している日だった。朝の出欠確認と連絡事項を話し終えると、佳代は佐田を教室の外に呼んだ。教壇の前で話しても良かったが、佳代は生徒個人のことはあまり人前では話さないことにしている。
「ねえ佐田君、放課後少し話したいことがあるんだけどいいかな?場所はそうだな・・・教室にしようか」
佐田は一瞬戸惑ったような顔をしたが、分かりました、と頷いた。
佳代が教室のドアを開けると、外のグラウンドを眺めていた佐田が佳代の方を向いて一礼をした。職員室から小走りで来た佳代は、顔を手で仰ぎながら話す。
「ごめんね、放課後に残ってもらって」
「いえ、大丈夫です」
「ありがとう~」
佳代は顔の前で両手を合わせて軽く礼をした。
窓側にいる佐田に手招きをして教室の真ん中の席に座らせた。佳代もその席の前に座った。佳代はふう、と息を吐くと、そのままの勢いで膝をポンと軽く叩いた。床に向けていた目線を佐田の目に移す。
「答えたくなかったら答えなくていいんだけど、以前、学費免除申請書を提出していたじゃない?そのことについて聞きたくて」
佐田は微動だにせず佳代の話を聞いている。
「お母さんは今働いていないんだよね?」
「そうです」
佐田の声がいつもより低いことに佳代は違和感を感じたが、そのまま話を続けた。
「それは、病気とかで働けないってことかな?」
「違います」
「そっか。他の理由があるなら教えて欲しいんだけど」
数秒の沈黙が続いた。その間、外からは運動部の掛け声が聞こえる。掛け声が少し収まると、佐田は口を開いた。
「それ、先生が知ってどうするつもりですか?」
とても静かで落ち着きのある口調だが、先程よりも声が低く、何かを恨んでいるように佳代は感じた。刺激しないように、そして、心配していることが伝わるように話した。
「最近さ、佐田君あんまり学校に来ていないじゃない?若しかして、その理由にはお母さんが関わっているのかなって先生は思っていて。その、介護とかで忙しいなら先生も」
「うるさい!」
二人以外誰もいない教室に、佐田の怒り声が響き渡った。それと同時に、佐田は勢いよく立ち上がる。その反動で、座っていた椅子が後ろの机にあたりそのまま倒れた。佐田の敵意を感じた佳代は、椅子から立ち上がることができず、佐田を見ることしかできなかった。両手は震え、開いた口は塞がらずにいた。何か話さなければ、と思いながらも言葉が出なかった。隠されたスイッチが押されたかのように、佐田は佳代に怒りをぶつけた。
「母さんのことも、俺のこともよく知らないくせに知ったかぶるな!大人はいつもそうだ。心配しているふりをするだけで、何もしない。先生もそうだろ!上の人に言われたから仕方がなく話を聞いているだけじゃないのか」
———違う、違うよ佐田君。私は本当にあなたを心配している。協力したいと思っているの
佳代の頭の中で発される言葉は、佐田には届かない。恐怖と悲しみで言葉が出なくなっていた。
佐田は言い終えると、一瞬困惑した顔をしたが、そのまま走って教室から出て行った。佳代は座ったまま、呆然と床を見ることしかできなかった。
翌日、佐田は学校に来なかった。他の生徒や先生からしたらいつものことだが、佳代にとっては違う。昨日の一件からずっと自分を責め続け、一睡もできずに学校に来た。電話で謝らなければ、と思いつつ、受話器を持つと手が震えた。怖くて怖くて、たまらなかった。
佳代は佐田だけのことを見るわけにもいかない。授業の進捗が若干遅れていた。その他にも、佐田以外の生徒や部活のこともある。
———佐田君のことは授業と部活が終わってから考えよう
一時間目が始まる前。職員室の自席で冷たい缶コーヒーを一気に体に流し込み、佳代は気持ちを切り変える。「数学Ⅰ」と書かれた教科書と、授業の内容をまとめたノートを持って職員のドアを開けた。
佐田が無理心中を図ったと警察から連絡があったのは、午後の授業が始まる前のことだった。
警察の話をまとめると、以下のようになる。
8月22日(木) 午前6時
A市在住の佐田桂子(42)と長男の彰人(15)が、A団地の外で倒れているところを通りすがりの男性が発見。男性はすぐに警察に連絡をし、二人は病院に搬送。母親の佐田桂子は死亡が確認され、長男の彰人は意識不明の重体で現在も治療が続けられている。
二人は5階の自室から飛び降りたとみられる。家の中が荒らされた形跡がないことから、無理心中を図ったと推測される。詳しいことは現在も調査中。
———私の、せいなのか
* * *
401号室の病室からぞろぞろと出てくる足音が廊下に響き渡る。佳代が座っている椅子とは真反対の方に歩いて行った。警察の姿がすっかりいなくなったことを確認すると、佳代は401号室に向かった。まだ恐怖心が残っている状態。足取りは重く、一歩進むごとに鼓動が早くなっていくのを佳代は自覚していた。
病室に入ると、佐田はベッドの角度を少し上げた状態で空を眺めていた。佳代はあの日の佐田と重ね合わせ、顔が強張る。恐怖を抑制するため、深呼吸をしてからベッドの横にある椅子に座った。目線が合わない佐田の目を見ながら、佳代は口を開いた。
「佐田君、目が覚めて良かった。本当に、良かった」
佐田は佳代の方を見ないでずっと空を眺めている。怒っているのか、お母さんのことを思っているのか、若しくは別のことを考えているのか、佳代には分からなかった。
佳代は佐田の見ている空に目を移した。空には一つの雲もなく、青が一面に広がっている。
「綺麗な空」
思わず口からこぼれる。佳代は入学式のことを思い出した。
「覚えてる?入学式も同じような空だったの。先生は職員室の窓から、綺麗な空の下で咲いている桜と新入生を見ていたんだよ。あ、そうだ」
佳代は持ってきた紙袋からゼリーを取り出して佐田に見せた。A市では知らない人がいないくらい、有名な老舗店洋菓子店が作るゼリーだ。
「ゼリー買ってきたから、冷蔵庫入れとくね。良かったら食べて」
佐田の目線は空のまま。佳代は一瞬寂しげな顔をしたが、仕方がない、と自分に言い聞かせた。
持っていたゼリーを、床頭台の一番下にある冷蔵庫に入れようと椅子から降りしゃがんだ。その時、覇気がなくかすれた声が横から聞こえた。
「先生は、お母さんのこと好きでしたか?」
え、と無意識に口から出た。しゃがんだ状態で佐田を見る。久しぶりに目が合った。佐田の真っ黒な目を見続けていると吸い込まれそうになる。抑えていた恐怖が、心の底からぼこぼこと湧き上がってくるのを佳代は感じた。持っているゼリーに目線そらせ、椅子に座り直す。目線はゼリーのままだ。
「好きだったよ。病気でもう亡くなったけどね」
佳代は質問の意図を斟酌していた。母と一緒に逝けなかったことへの後悔。そして、自分だけ生き残った苦しみ。
「僕も、好き、でした。一緒に、生まれ変わる、はず、だったのに」
声を詰まらせながら佐田は言った。佳代の目線はゼリーのままだったが、佐田が泣いていることは分かっていた。そして、以前から無理心中を考えていたのではないか、と佳代は思い始めた。
視界に入る佐田の右手をそっと握った。恐怖を感じていた人間が弱さを見せているためか、幾分恐怖は無くなっていたが、まだ心の底をうろうろとしている。佳代の精一杯の慰めだった。佐田は手を握り返して、静かに泣き続けるだけだった。
「先生、ゼリー全部食べちゃった。また、食べたいんだけど、ダメかな?」
昨日よりも元気で調子が良い佐田を見て、佳代は安心した。おねだりする佐田に対して、まだ子供なんだな、と思ったが無理心中を図ったのは事実。佳代の内心は混沌としていた。
「いいよ。また買ってくるね」
ありがとう、と佐田は笑ってもう一つおねだりをしてきた。
「病院の外に行きたい」
意識を取り戻してまだ1週間。まだ弱っている佐田を外に連れ出すのは大丈夫だろうか。佳代の心の中で不安が募る。反面、佐田からの要望に嬉しさを感じていた。
しばらく考え、佳代はベッドの横に折りたたまれている車いすを準備し始めた。
車いすをゆっくり押しながら、病院の横にある緑道を進む。鳥と虫の鳴き声が二人を包むが、丁度良い音量で初夏を感じさせる。
「今日はいい天気だね。風も気持ちいいし。あ、見て!」
佳代は緑道の少し先の花壇を指差した。青色と薄紅色の紫陽花が凛として咲いている。
「紫陽花だ」
佐田が呟く。花壇の前で車いすを止め、佳代は横でしゃがんだ。
佳代はこの前のことをずっと謝りたかった。だが、タイミングを掴むことができず謝れずにいる。言うなら今しかない。汗ばむ手を握る。
「この前は、ごめんなさい。佐田君の気持ち全く分かっていなかったのに、色々と口出しして。凄く、後悔している。でもね、先生は本当に佐田君を助けたかったの。お母さんのことも」
佐田は紫陽花を見たまま、唇を結び深く頷いた。佳代にはそれが、まだ怒っているのか、怒っていないのか分からなかった。
しばらく沈黙が続いた。佐田の横顔を覗くが、表情は変わっていない。不安が募っていくばかりだった。佳代が紫陽花に顔を戻すと、横からふぅと息を吐く音が聞こえた。
「母さんは重度の薬物依存症だったんです。高校生の時からやり始めて、俺が生まれてからは止めたらしいんですけど、中学に入ってからまた手を出し始めて」
佳代は佐田の告白に驚いたが、何も言わず静かに聞いた。紫陽花を前に、ただ頷いた。
「暴力的になったり、一日中寝ていたり、症状は様々でした。でも、高校入学前から母さんは日に日に弱まっていきました。そして、俺を見る度に謝ってきたんです。こんな母親でごめんって」
佐田は深呼吸をして、話を続ける。
「一週間前に殺してくれって言われました。もちろん、そんなことできるはずがないと思いましたが、苦しんでいる母さんをずっと見てきたので、楽になって欲しい気持ちはありました。でも、俺は母さんが大好きで、俺には母さんしかいなかった。だから、一緒に死のうと思いました。いざ、飛び降りようと母さんを抱っこしてベランダに出た時、足が震えて、凄く怖かった。その時、母さんがありがとうって。それで、迷いがなくなり二人で。でも、僕は生き残った。母さんは今、一人で天国にいる」
声はかすかな震えがあったが、唇を噛みしめ込み上げてくる感情と後悔を抑えようとしていた。
様々な葛藤を抱え、追い込まれている状況を始めて知った佳代は、視界に写る紫陽花のピントが合わなくなった。これまで多くの生徒の悩みを親身になって聞き、共に解決してきた佳代はそれなりの自信があった。生徒からの信頼も厚く、頼りになる先生と言われることに自他ともに認めていた。しかし、佐田には寄り添うことができず、挙句の果てに最愛の人を失くした。その感情は、佳代も十分理解している。佐田を助けることができなかった自分への嫌悪、無力さが全身を包む。
「佐田君、私」
「先生は自分を責めていると思いますけど、違いますよ。俺こそ、あの時ひどい態度を取ってごめんなさい」
佐田は佳代が言いたかったことを察したかのように遮った。
本当は心優しく、誰よりも人を愛せる人。それなのに———
初夏の風になびかれて、静かに紫陽花が揺れる。
* * *
佐田はその後、順調に回復して5カ月で退院した。学校にも毎日登校し、友人も徐々にできていった。それは、佳代が毎日病院に行って、親身にサポートを続けたことが大きく響いている。
佐田は真面目に勉学に励み、遅れていた分をあっという間に取り返した。それどころか、みるみる成績は伸び、2年生に上がる頃には学年でもトップの成績に位置付けた。
高校卒業後は県外の難関大学に通い始めた。地元を離れてからも佳代は佐田を気に掛け、連絡を取り合っていた。始めのうちは、佳代がメッセージを送るとすぐに返って来て、今日あったことを十分なほど話してくれた。しかし、徐々に返信速度が遅くなっていき、いつの間にかやり取りをしなくなった。
佐田が大学を中退したと佳代が知ったのは、しばらく経ってからだった。山口がたまたまA市にある小さな花屋に行った際に、佐田を見かけたという。佳代はすぐにその花屋に向かった。山口の言う通り、そこには佐田がいた。佳代を見た佐田はニコリと笑い、迎え入れた。大学を中退した理由は教えてくれなかったが、佐田が生きていてくれるだけで佳代は良かった。
2年後、佐田はまた姿を消した。
* * *
A市の外れにある墓地に、佐田はお母さんと同じお墓に埋骨された。
細長い階段を上り終わる頃には、佳代は少し汗ばんでいた。羽織っていた黒いカーディガンを脱ぎ、左腕にかける。新聞でくるまれた紫陽花を両手で抱えているため、カーディガンを手に持つ余裕がないためだ。
「佐田家」と彫られたお墓には、枯れかけた青色と薄紅色の紫陽花が飾られていた。佐田が自殺する前に、お母さんに挨拶をしに来ていた証拠だ。お母さんに何と言ったのか、佳代は考えようとしたが止めた。
線香をあげ、お墓の前で拝む。その後、お墓に水を掛けながら、佳代は話し掛けた。
「佐田君、お母さんには会えた?先生は、寂しい。もっと君に何かしてあげられたはず。なのに」
返答がないお墓に、行き場のない感情をぶつける。それしかできなかった。
一通り水を掛け終えた後、佳代は新聞紙にくるまれている紫陽花を取り出し、お墓の前にそっと置いた。
———紫陽花は、君を守ってくれる
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