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航空自衛官が追う日航123便墜落の真相 御巣鷹山事故論争に終止符を打つ ①

第1部
1 問われ続ける『報告書』の意義

 1985(昭和60)年8月12日(月)日本の空は、突如として未曽有の航空事故に見舞われた。事故機となった日航ジャンボ機(B747SR-100型/JA8119号機(※1))は、123便(※2)として大阪伊丹空港に向け、定刻より12分遅れで18時12分頃羽田空港を離陸した。左の機⾧席には機⾧への昇格訓練のため副操縦士(39歳)が、機⾧(49歳)は右席に就き、航空機関士(46歳、「FE」)が中央後方の席に乗務した(※3)。JA8119号機はこの日実に5回目となるフライトで、機⾧と副操縦士は、当該機の乗務はこの日初めであったが、FE は123便を含め3便続けて乗務していた。前便は福岡発羽田行きの366便で、羽田空港での駐機時間は50分であった。18時24分頃事故機は、高度約7,300m(23,900ft)、速度約800km/h(430kt)で相模湾上空を伊豆半島南端の下田方面へ向かって飛行中、機体に何らかの異常が発生した。
 『報告書』は、このとき機体は方向舵を含む垂直尾翼の大半と補助動力装置(「APU」)を含む尾部胴体が脱落し、これに伴う油圧配管の破断により操縦不能の事態に陥ったと推定した。事故発生当時、東伊豆河津町周辺では上空で大きな爆発音を聞いたとか、その瞬間を目撃したと答えた人が複数名おり、中には休憩中だったタクシー運転手が、「雷のような(ドカーン)という音」、「機体の後部(垂直尾翼付近)から灰色の煙を出していた。」、「煙はバスが急坂を上るときに出す排ガスの色のようだった。」などと、原因の究明に極めて重要な手がかりとなる内容を証言していたが(※4)、事故調はこうした事実を報道などで知りながらも、前便(366便)の乗員乗客と同様に聴取をしなかった。しかし、366便の乗客の一人は通常とは異なる機体の揺れやきしみ音とともに振動などの異変を感じ取っていた(※5)
 機⾧らは右旋回で羽田への帰還を目指したが、32分間の苦闘の末、18時56 分頃機体は群馬県多野郡上野村の山中(通称御巣鷹の尾根)に激突、大破炎上した。折しも、お盆の帰省時期であったため、家族連れの帰省客や出張帰りの会社員などが多く、日本だけに向け国内便仕様として製造された機体(「SR 機」、ショートレンジの略)は、当時世界最多の528座席であったことも災いし(※6)、乗客乗員520名の尊い命が奪われ、生存者は僅か4名に過ぎなかった(※7)。事故後、専門家を自称する元パイロットの中には、羽田(東京湾)に戻る際に左旋回していれば、海上への不時着水による生還の可能が高かったのではないか?などともっともらしく解説し批判する者も数多くいたが(※8)、それはじ後に操縦不能の事態に陥る事実を知っているからこその後知恵であり、機⾧が現に操縦している側の右に旋回するという判断はどのパイロットであっても無理のないものであった。
 当該事故の調査は日本の事故調に加え、米調査団として米連邦航空局(航空行政機関で日本の国土交通省航空局に当たり、航空機の製造、運航などを監督指導する政府機関、「FAA」)及び国家運輸安全委員会(日本の事故調、現在の運輸安全委員会と役割は同じだが、独立性が高く事故調査の強い権限を有する。「NTSB」)、ボ社が協力する形で行われた。事故調は事故原因を、「隔壁(直径4.56mのお椀形の蓋、厚さにして僅か0.8~0.9mm のアルミ合金製)が、事故7年前の大阪空港で機体後部が滑走路に接触した尻もち事故の後、下半分だけを交換して上半分に継ぎ合わせる修理をした際の不適切な作業に起因して損壊し、引き続いて尾部胴体、垂直尾翼、操縦装置に損傷が生じ、飛行性能の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたもの」との見解を示した。なお、隔壁の破壊から垂直尾翼の崩壊までに要した時間は0.3秒と推定したのであった。

日乗連「日本航空123便-事故調査報告書の問題点」から転載

 しかし、事故原因と推定した隔壁の破壊と「隔壁の破壊→ 客室の与圧空気噴出→APU を含む尾部胴体の損壊・垂直尾翼→油圧系統破壊→操縦不能→墜落」という破壊プロセスの見立て、筋書きでは事故の全容はまるで見えてこない。

日乗連「日本航空123便-事故調査報告書の問題点」から転載

 現に、『報告書』提出前年の1986年4月25日『報告書(案)』に関し開かれた聴聞会の席上、東京大学工学部の小林繁夫教授(当時)は、「数値的に力学的な根拠など本質的なことが何も示されてはいない」と指摘、「専門家が納得いくような事故原因究明結果を出していただくようお願いする」と意見した。群馬県前橋地検の担当検事(当時)も、「修理ミスが、事故の原因かどうか相当疑わしい」、「事故調査報告書も曖昧」とするなど受け止め方は冷ややかで、8.12連絡会はもとより日本乗員組合連絡会議(国内定期航空の機⾧、副操縦士、航空機関士等が組織する各組合の連絡会議。「日乗連」)は、「事故調査報告書を出されて終わりではない。」との決意で、この後も⾧きにわたり、再調査ないし更なる原因究明を求め続けたのであった(※9)

2 事故の責任追及を巡る日米対立

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