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組織事故の教訓に学ぶ ② 原因を特定できないことを理由に対策・救済を先送りされた公害被害

はじめに

 四大公害病である水俣病は、病状の深刻さ、被害拡大の甚大さ、対策・救済の遅れ等、どれをとっても世界的に類例のない未曾有の産業事故である。水俣病は、熊本県水俣湾への工場排水によるチッソ(以下「同社」)水俣病と昭和41(1966)年9月に公式確認がされた新潟県阿賀野川の工場排水による第二水俣病(「新潟水俣病」ともいう。)があるが、原因はいずれもアセトアルデヒドの製造で副生されるメチル水銀が、未処理のまま廃液として海や河川にタレ流され、これが蓄積した魚介類を摂取した人が中毒症を発したものだ。昭和31(1956)年5月1日の水俣病の公式確認から70年近くの歳月を経た現在も患者の救済はもとより、環境(漁場を含む。)の復元など、解決されるべき多くの問題が山積したままである。
 今回は、初期段階で被害発生を防ぎ得なかった企業、自治体、国がどのように対応したのか、被害が拡大し、事態が深刻になっていく状況で、地域住民の反応はどのようなものであったのか、報道はいかに伝えていたのかを通じ、今日のわれわれの参考となる教訓を導き出したい。

1 異変の始まり

 同社が、酢酸エチル(シンナーやラッカーの溶剤)の原材料となるアセトアルデヒドを水銀の触媒で、製造を開始したのは、昭和7(1932)年のことである。これを遡ること、昭和元(1926)年には、同社は既に汚染による漁業被害に対し、「永久に苦情を申し出ない」ことを条件に見舞金を支払った。つまり、かなり前から海は汚染されていたのだが、誰の目にも異変が明らかになるには時間を要したのだった。
  水俣のメチル水銀の中毒症状は、人よりも動物に早く現れ、昭和20(1945)年の終戦前後には、ネコや犬が踊り狂って海に飛び込んだり、カラスや海鳥が舞い落ちるなど、動物の死骸が目立つ奇怪な現象が出始めた。ちなみに、同社は、戦時下で爆薬や防弾ガラス、軍服などに使用する化学繊維を製造し、急成長を遂げ、朝鮮半島、中国や東南アジア諸国に、50以上もの工場を有するまでになった一大企業グループ(財閥)である。空襲による壊滅状態からの復興は、戦後の象徴的存在とされ、昭和24(1949)年には昭和天皇が同社水俣工場を訪問、社員を激励されている。
 この頃には、水俣湾では魚がフラフラと浮き、貝が口を開け悪臭を放って死に、海草が白く変色して海岸に打ち上げられるなどの異変が既に現れ始めていた。昭和29(1954)年頃から、漁獲量は毎年前年の1/2~1/3に激減していき、海の異常は一層顕著になった。これらは、水俣病の発生を予兆するものであった。事実、この頃には、水俣湾の漁村でも、人が口や手足に痺れを感じたり、視聴覚の障害を訴えたり、奇声を発するなどの症状が現れ始めた
(後に、第1 号認定患者の発症は、昭和28年と認められる。)。
  経済白書では、「もはや戦後ではない」とされた昭和31年の5月、突然の奇病の発生に、水俣保健所、同社付属病院、水俣医師会、水俣市立病院、水俣市役所は、「水俣奇病対策委員会」を発足、病気の実態と原因の究明を行ったが、患者が漁村に集中していたことから、伝染病ではないかと疑い、緊急措置として患者を隔離し、消毒を実施した。しかし、自治体が行ったこの措置のために、様々なデマや憶測を呼び、患者らへの中傷が飛び交った。そして、患者とその家族は地域社会から孤立し、人の目に触れなくなったことから、被害は深刻化する状況となった。同年8月、熊本県衛生部の要請により熊本大学医学部にチッソ水俣病研究班(「熊大研究班」)が組織され、同年11月には、「チッソ水俣病は伝染性の疾患ではなく、原因物質は特定できないものの、工業廃水により重金属に汚染された魚介類を摂取したことによる中毒症状である可能性が高い」こと、そして「その有害物質は同社水俣工場の排水に含まれているとしか考えられない」ことを指摘し、翌年2月には、緊急対策として、「水俣湾内の魚介類の漁獲、販売の禁止と同社水俣工場の操業停止」を求めた。

2 事態悪化に際して、何も決められない人びと
(1)自治体・行政・専門家らによる会議

 こうした中、昭和32年3月、厚生省(厚生科学研究班)は、「奇病は水俣湾内の魚介類の中毒であり、汚染源は化学物質ないし金属類」と指摘、7月には「同社の廃棄物によって有毒化した魚介類を大量摂取することで水俣病が発生」と推定、熊本県、研究機関の専門家らによる「水俣奇病会議」が開催された。しかし、県が、原因物質を特定できない段階では、同社の操業停止はもとより、魚介類の漁獲禁止はできないという立場をとったため、問題は先送りされた。
 これに対し、昭和34年7 月、熊大研究班では、チッソ水俣病患者の病状(痺れや視聴覚障害)は、「昭和15(1940)年イギリスでの神経学者による農薬工場従業員のメチル水銀中毒患者に関する報告」の症状と特徴が酷似しており、原因物質は有機水銀の可能性が高いと発表し、水銀汚染を調査し始めた。すると、水俣病患者の毛髪から最高705ppm(1ppm=10-4%)の水銀が、発症していない住民からも191ppm が検出された。しかも、水俣湾の魚介類から次々と高濃度の水銀が検出され、水俣湾の魚介類を投与したネコと、有機水銀を直接投与したネコの症状や病理所見も一致した。しかし、こうした熊大研究班による調査研究は、国からの予算の制約、同社や自治体も協力的でなかったことから、必然的に限界が生じることになった。
 昭和34(1959)年11月、厚生省の食品衛生調査会に設置された「水俣病中毒特別部会」は、「チッソ水俣病は水俣湾及びその周辺に生息する魚介類を大量に摂取することによって起こる、主として中枢神経系統の障害に伴う中毒性疾患であり、その主因をなすものはある種の有機水銀化合物である」と厚生大臣に答申した。しかし、その翌日、「所得倍増計画」の経済政策重視で知られる池田勇人通産大臣(翌年、首相に就任)の「結論は早計」との発言が契機となり、突如同部会は解散されてしまった。更に、関係省庁と専門家による「水俣病総合調査研究連絡協議会」が設けられたが、立場が異なり、力関係にも差のある通商産業省(当時、「通産省」)と厚生省との間では、「原因物質を特定できなければ、何もできない」との論議を繰り返すだけで、結論が出ないまま、些か1 年で解散したのであった。
 しかも、熊大研究班の「有機水銀説」に対し、同社社長(当時)は「当社は無機水銀を使っているから、当社が原因とされるのは意味が分からない」と否定したのだ。更に、日本化学工業協会理事が、「大戦中に海中投棄された旧軍の爆弾が腐食し、爆薬が溶け出したのが原因」と言い出した。だが、熊本県による調査で事実関係が即座に否定されると、今度は在京の大学教授が、「水銀ではなく、魚介類が腐敗したアミン系なる毒物である」という珍説を持ち出してチッソの擁護に加わった。このようにして、同社は、「水俣病発症の医学的メカニズムが解明されない限り、原因が確定したとはいえない」という非道な企業論理をとり続けた。産業を育成する通産省は、「化学産業の重要な中間素材物質を生産する同社を操業停止に追い込むなどということは避けなければならない」と保護する立場を固持し続けたのであった。

(2)地域社会における企業の影響力

 水俣市は、同社の発展とともに成長してきた地域社会で、いわゆる企業城下町という特性を有していた。例えば、昭和35(1960)年の同社による水俣市の税収は約50%を占め、昭和43(1968)年の工場出荷額でも66%を占めていた。同社は、こうした影響力を背景に税制上の優遇措置などを得るだけでは満足せず、多数の従業員を市議会議員に立候補させた上、元水俣工場長を12 年にも亘って市長の座に据えた。こうして、自治体を掌握下に置くとともに、「同社あっての水俣」という運命共同体であるかのような意識を地域住民に対し根強く植え込んでいった。
 実は、同社による環境破壊は、陸上においても、煙害・粉塵・騒音・振動など早くから発生していたが、こうした野放図にも見える企業活動を抑制する力は、地域社会の内部から徐々に削がれてしまっており、ついに水俣病が発生するまでは、社会問題化するところまで至ることはなかった。

水俣市税収に占めるチッソ納税額の割合

(3)漁業・水産関係者の複雑な心理状況

 漁獲高の減少に、漁法や漁場を変えて何とか事態を打開しようとする者がいた一方で、漁業を諦めて船を売却し、陸に上がる者も少なくなかった。更には、獲った魚が病気の原因だとされ売れなくなると、漁師は生活基盤を守るため、新たな患者の発生を恐れ、これを隠蔽しようとした。昭和39(1964)年には、「漁業回復宣言」まで行い、こうした企てを組織的に行おうとする漁協まで出始めた。

3 被害拡大の真相
(1)回避されてしまった漁獲禁止の措置

 生命や社会生活、人間性までも破壊してしまう水俣病が確認された時点で、原因の特定ができていなくとも、その後の発生を防止するために、あらゆる手段が講じられるべきだったことは明らかだ。少なくとも、原因物質が魚介類を媒介していると判った段階で、まずは漁獲禁止の措置が必要だった。しかし、昭和32年8月、県が食品衛生法による漁獲禁止の措置について厚生省に照会したところ、翌9月に「湾内すべての魚介類が有毒化しているという根拠がないため、法律による漁獲禁止措置は困難」と回答されたことから、県は漁業者に対して、操業・販売の自粛を要請しただけであった。
 そこで、水俣市漁協は、水俣湾内の操業自粛の方針を打ち出したが、漁業者には操業自粛に対する補償もなく、取り締まりも十分ではなかったため、この方針が徹底されることはなかった。その後、汚染海域が水俣湾以外の周辺の沿岸にも急激に拡大すると、県でも特別法を作って漁獲禁止にするという動きも出てきたが、漁業関係者らによる大規模な抗議活動が起こり、直ぐに立ち消えとなった。しかも、自治体が魚介類に関する危険性を積極的に知らせようとしなかったため、有毒な魚介類が依然として地元周辺に広く出回り続け、水俣病被害の深刻な拡大につながっていった。

(2)原因特定の引き延ばしが、第二の被害に

 当初、原因解明を依頼された熊大研究班は、当然ながら、早い段階で同社の工場排水に着目していたが、排水に関する直接的な調査研究は、同社と自治体から協力が得られず、専ら研究室内での動物実験によって、原因となる物質の検証が繰り返された。その間にも、水俣市長が、原因は農薬の可能性があるとの意見書を厚生省に提出するなど、原因特定が引き延ばされたのであった。
 それでも、昭和34年の半ばには、同研究班では前述のとおり、イギリスの農薬工場で発生したメチル水銀中毒例を手掛りとして、有機水銀が原因物質であるとの見解を発表した。誰もが、同社の工場排水が汚染源であると、直感して分かっていた。このとき、同社付属病院長細川一博 医師による社内の研究(ネコ四〇〇号実験)では、水俣湾の魚を与えたネコが水俣病を発症することが明らかになっていたが、同社技術部次長(当時)が、「誤解を招く。正しいかどうか分からない」と発症データを除外するよう指示、同社は事実を公表しなかった(昭和43年8月にスクープ報道された。)。
 熊大研究班が、水俣病の原因物質は、工場排水中に含まれるメチル水銀であることを特定したと公表したのは、昭和38(1963)年になってからのことであったが、患者救済と漁業補償の問題が進展しつつあったため、汚染源が公的に確定されないまま新聞記事から消え、人々は半ば忘れ去り、社会も関心を示さなくなっていった。だが、現実にはこの間も次々と患者は増えていた。むしろ、業界はこれを逆手にとり、全国紙に自らの立場を擁護する学者の論文や業界の記事を掲載して、巧みに「地方対中央」の構図を際立たせた。しかも、省庁ごとに置かれた番記者は、現地取材で患者の生の声を聞くことも、汚された海を見ることもなく、安易に中央の発表を掲載した。今日的視点で考えれば、結果的にマスコミが業界に加担し、同社に一役買ったとして、責任を問われかねない状況であった。
 昭和40(1965)年6 月、新潟大学医学部の椿忠雄 教授(当時、故人)が新潟水俣病の発生を発表すると、水俣病の汚染源について、沈静化していた関心が呼び戻されることになった。この頃になると、水俣病に加え、イタイイタイ病、四日市ぜん息、光化学スモッグなどの公害が次々と社会問題化し、国民の関心が高まっていたため、政府は目に見える対策を迫られた。昭和45(1970)年「公害国会」では、「海洋汚染防止法」、「水質汚濁防止法」などの法律が制定された。また、環境庁(当時)が創設されたのは、こうした時勢を踏まえた対応であった。

(3)実施されなかった排水の停止

 チッソ水俣病が公的に確認される以前から、水俣湾の漁業関係者は、漁獲量の減少や魚介類・動物の異変などの原因が同社の排水であることは、直感的に見抜いていた。昭和32年1月には、漁協は同社に対して、
①工場から流出する汚悪水の海面への流出を直ちに中止すること
②今後、汚悪水を海面に流出するについては、浄化装置を設置して、浄化の上、無害を立証されたものとすること
の2 点を要求した。これは、漁業補償を求めたものではなく、生活への不安に対する率直な訴えであったから、この時点で、この訴えに添った措置を取っていたら、その後の被害拡大は防げたはずであった。しかし、同社は、「排水分析の結果、昭和23~24年頃と何ら変わらない」と回答しただけで、これに応ずることはなかった。
 翌昭和33(1958)年、同社は前述の社内研究で水俣病は工場排水が原因だと
判っていたにも関わらず、この事実を隠蔽するばかりか、驚くべきことに、原因追究を逃れるため、卑劣にも水俣湾の百聞港にあった排水口を、北側の水俣川河口に方向を変えていた。その結果、汚染が不知火海(八代海)一帯に拡大した。翌昭和34年には、水俣地域以外の各地で患者が確認され始め、一帯はパニックになった。同社への抗議行動は、漁業関係者に留まらず、県議会にも波及するようになり、通産省は容認できなくなった。そこで、同業他社への影響を食い止めるため、通産省は同社に対し、新たに患者を発生させた水俣川河口への排水中止と浄化装置の早期完成を指示した。
 昭和35年12月24日、同社は二つの排水処理設備を完成させた。しかし、
これはpH の調整と固形物を沈殿させ除去することを目的としたもので、水に溶解してしまった有機水銀化合物を取り除く効果はなかった。同社は、この事実を承知していて、目に見える形で何らかの対策をしたという、その場しのぎの対応を行っただけであった。しかも、この排水処理設備の竣工式で、社長(当時)は、列席した県知事を前に浄化後の排水(実際は水道水)をコップで飲んでみせる政治的パフォーマンスを披露し、これ以降、工場の排水は完全に浄化されたと宣伝、有毒物質の排出は止まって、汚染の恐れはなくなったかのように信じ込ませた。
 また同年、不知火沿岸住民約1,000名に対し、毛髪水銀の調査・一部検診が
行われ、920ppmという異常な値を示した人がいたにも関わらず追跡調査は行われず、また、こうした事実は10年以上も公表されなかった。昭和43年5 月、同社は、アセトアルデヒドの生産を千葉県市原市の五井工場に移し、水俣の製造設備を閉鎖、メチル水銀の流出が完全に止まった。同年9月、ここに至って、ようやく国は水俣病は、「工場のアセトアルデヒド製造工程で生成されたメチル水銀が原因」と公式見解を発表した。公的に水俣病が確認されてから、実に12年の歳月が経っていた。この間、健康調査はもとより、患者、被害者は救済や正当な補償を得られなかったばかりか、第二の悲劇となる新潟水俣病の発生とチッソ水俣病の甚大な被害拡大を防げなかったのである。しかも、それまでに海中に排出され沈殿した膨大な水銀はその後も魚介類を汚染し続け、14 年の歳月と約500億円の巨費をかけた水銀除去事業の後の平成11(1999)年でも、国の規制値を上回る魚介類の生息が確認されたのであった。

(4)最大の過ち

 昭和35年10月、熊大研究班は、同月の2名の発病を最後に、「排水処理装置が完成して、運転を開始した」ことで水俣病は終息したとした。しかし、これを裏付ける住民の健康調査も、水質や魚介類の調査も十分に行っていなかったにも関わらず、同社や熊大研究班の発表により、漁師や住民は安心してしまい、再び魚を食べるようになったため、事態は急激に悪化していった。さて、昭和33年当時、アセトアルデヒドを製造している工場は、日本に6社7工場があった。では、なぜ、水俣と新潟だけで水銀中毒が起きたのだろうか。それは、水俣では海に、新潟では河川に廃液をタレ流しており、残りの5工場の立地場所は海岸から離れているか、山中にあり、廃液は河川に流していたものの、阿賀野川のような大きな河川ではなかったことが決定的に異なっていた。
 それでも、水俣の被害が桁違いに甚大だったのは、驚くべきことに、同社は、コスト削減のため、他社とは異なり、助触媒の一つの使用を止めたり、代わりに自社硫酸工場の廃棄物に変更したりしたことで、廃棄(排水)するメチル水銀を含む母液が増加したことに加え、機器の老朽化を放置し、タンクや配管から母液が漏洩・流出を続けたことで、メチル水銀の排出量が一挙に数倍に増加したことにあった。これは、「モノさえできればイイ」とい
う同社の企業体質そのものであった。

昭和33年当時のアセトアルデヒド製造工場

(5)住民同士が敵対する悲劇

 城下町では、漁業水産関係者や患者らによって同社に対する抗議運動が繰り広げられる中、住民の中には、「運命共同体」の意識に目覚める者が現れ始めた。商店や旅館などは同社及び関連企業の業績悪化によって集客が低下することへの不安が募り、水俣のイメージダウンにつながると被害者意識が高まった。同社及び関連企業の社員や家族らもこれに加わり、同社の危機を自分たちの生活の危機と受け止め、同社の責任を追及する漁業水産関係者や患者には、いわば「共同体」を危機に陥れる危険人物、秩序を乱す者として、白い眼を向け、排除・差別・抑圧する姿勢をとった。中には、病名を変更する運動まで起こす人たちまで現れた。
 事実、昭和34年、熊大研究班によって、原因物質は有機水銀の可能性が高
いとの見解が発表され、チッソの工場排水が汚染源であることが半ば周知の事実となった際、とりわけ、水俣地域以外の不知火海一帯に被害が拡大したとき、漁協を除く主要28 団体が集結した。そこで、市長、市議会議長らが先頭に立って、「工場排水の停止は、水俣市民の死活問題」と知事に陳情、熊本県警には、「暴力行為への十分な警備」を要望し、厚生省に対しては、「同社を原因者と確定する結論は、早急に出さぬよう」陳情をしたばかりか、患者や漁業関係者の同社に対するささやかな補償要求にすら、公然と反発した。しかも、警察と検察は、漁業者の暴力行為の取り締まりには熱心だったが、同社関係者の刑事責任(業務上過失致死罪・傷害罪)を追及したのは、公式確認の18 年後だった。また、政府によって、水俣病の汚染源がチッソであると公式に発表された後の昭和46(1971)年になって、同社との補償交渉を直前に、市長は、「患者と全国の世論を敵にしても同社を擁護する」とまで言い放ったのであった。
 昭和50(1975)年8月8日の熊本地方紙には、大見出しで、環境庁に陳情した
県議会議員の暴言を引用し、「申請者にニセ者が多い」、「補償金目当て」などと書き連ねる横暴な記事も登場した(名誉毀損による裁判所判決で、同紙は、昭和55(1980)年にもなって、熊本県知事による謝罪広告を掲載した。)。つまり、水俣病患者及び漁業関係者らと自治体やその他の地域住民との間が敵対する関係で分断され、ともに孤立してしまった結果、地域社会として、被害の実態と原因を究明する主体性は奪われた。このため、解決の道は、いつの間にか国や県への陳情という形に変容し、行き足が完全に鈍ってしまったのであった。まさに、水俣の水銀汚染は、大量消費社会が環境を回復不能にまで破壊した高度経済成長の負の遺産である。

4 社会の現実が見えない専門家

  環境工学のある専門家が、20年程前に出版した本には、次の記述がある。
 「水俣病の例からも、かくも幼稚な予防原則(「深刻な或いは不可逆なダメージの恐れがある場合は、例え原因と結果の関係がはっきり確立していなくても、予防的な対策が取られるべきという考え方)を導き出すことはできない。水俣病は、当初は伝染病と考えられた。やがて、工場排水が疑われ、熊本大学研究班は、マンガンが原因であると発表、つぎはセレン、更にタリウムと変わり、最後に水銀に到達した。伝染病と思われた時点で、隔離するのがよかったか、マンガンと発表された段階でマンガンの禁止に踏み切れば良かったのか、もし、そのようなことをしていたら、水銀を追いつめることはずっと遅れてしまったに違いない。まずは、原因と結果の関係をもう少しはっきりとさせることが必須である。それなしに対策ができるわけがない」※( )内は、筆者による補足説明
 水俣病をはじめとする公害を幾度となく経験した今日でも、こうした考え方が、専門家と呼ばれる人たちには依然として根強いことを窺わせる内容である。しかし、専門家ではなく、利害関係を有しない筆者が、できうる限りの資料を参照し、憶測を加えず、事実関係を客観的に整理すると、本稿のような内容になる。水俣病では、この種のでたらめな専門家が、現場も見ないで、「食べ物や住むところ、仕事も選べない患者や被害者の声」に耳を傾けようとせず、弱者の立場で考えなかったため、原因の特定を遅れさせ、事態を悪化させることにつながったのではないか。水銀の毒性が消えてなくならないように、人の悲しみや苦しみは癒えることがない。このような人たちは科学技術の社会的役割について改めて思いをいたすべきであろう。
 日本人・日本社会は、特に専門分野が細分化していて、個々の分野の専門家は多く、先端の技術研究では進んでいる。しかし、事故や災害などの社会的に大きな問題は、個々の専門分野の枠を越えたところで発生する。近代科学の発達は、物事を細分化し追究すれば、何でも判るといった視野狭窄的なモノの見方や人間は自然を思うようにコントロールできるという驕った考え方を抱き、公害や原発事故などの落とし穴に陥ったのではないだろうか。これらは、次稿の薬害にも共通する問題である。水俣の例だけでなく、学者・研究者・医師、権力ある指導者は、地位や利害関係により独善的になりがちである。公害の再発を防止するには、科学者が患者・遺族・被害者・現場の人など立場が弱い人の生の声によく耳を傾け、たとえ感覚的なものでも、権威を振りかざして否定したり、事実を曲げて強弁したり、意図的な反論で妨害したりせず、事象を俯瞰的に捉え、影響や被害を想像することが必要なのであろう。
  エラーや違反を犯して社会を危険状態に陥れるのが、安全に係る人のマイナス面だが、異変や恐れを正しく感じ、危険を回避するのはプラス面である。水俣や新潟の漁師が、海や河川の異変に直感で行動に移したのはまさにそれである。水俣では、「海が汚れたのは工場排水が原因」、新潟でも、「川はひとすじ、工場は一つ」と指摘した漁師に対して、昭和電工社長(当時)は、「事実は、歴史が証明する」との発言を遺したが、皮肉にも逆の意味で、漁師の言ったとおりの事実が証明された。つまり、公害防止の技術や政策を飛躍的に発展させたのは住民運動や訴訟の成果であったのだ。

5 水俣病被害から何を学ぶか

 かくて、加害企業が原因究明を拒否し続け、自治体や国が対応を怠り、地域や家族が患者の存在を隠し続ける中で、マスコミが人々の記憶から消し去ってしまったことで、水俣病の被害は深く浸透していった。公害を代表する産業事故による被害は、一般に広範囲に及ぶが、中でも、漁業、農業関係者あるいは生活圏では、とりわけ経済的弱者に集中する。水俣病も漁村に被害が集中しており、そうした特徴が問題をより複雑なものとした。水俣病被害からは、次のような教訓が導き出される。
 ①産業廃棄物は、明らかに無害でない限り、環境に排出してはならない!
  産業廃棄物の排出によって引き起こされる公害病や環境(生態系)破壊  
  などは、回復不可能な深刻な被害をもたらすものである。
 ②汚染の拡大を防止するためには、まず、疑わしい汚染源を止める!
  現代の工業化学が作り出す物質は、その時点で動植物や人体への影響が
  ないと解明されているわけではない。しかも、こうした場合、有害物質
  が自然環境に蓄積され、異変となって現れるには時間を要し、最終的に
  人に被害が出るときには、既に手遅れとなる。同社水俣工場長が、検事
  の取り調べに語った際の調書によれば、水俣病の原因物質が特定できな 
  くても、「昭和28年には水俣病が発生していたことを踏まえれば、その
  後に工場が水俣湾に排出した廃液の消去法で、幾つかの廃液は原因から 
  除外することができる。つまり、これ以前に排出していた廃液は、アセ
  チレン発生残渣廃液(成分は消石灰)、塩化ビニル廃液(成分は薄い塩 
  酸)、アセトアルデヒド廃液の3 つであり、このうち、アセトアルデヒ
  ド廃液は色も臭いも固形物もあって、見た目にも汚い廃液である上、水
  銀が多量に含まれていることは、誰の目にも明らかだったから、真先に
  疑うべきだった。」すなわち、副生されるメチル水銀による水俣病の発
  生メカニズムは判らなくても、この廃液を疑い、常識的な廃液処理を行
  っていれば、このようなまでの深刻な被害の拡大は防げたと、『水俣病
  の科学』は指摘している。
 ③地域社会が、企業活動をコントロールすること!
  水俣病被害においては、同社は地域社会における優越した絶対安定の地
  位を得て、結果的に廃液処理も無責任になり、水俣病を発生させ、環境
  を私物化して破壊させるに至ったことを深く記憶しておく必要がある。 
 ④意図的な情報発信には、警戒心や正常な猜疑心をもって背景を調べる!
  航空の専門家の中には、「関係者の証言がなくても、事故の詳細は解明
  できる状態に近づいている」という方がいるが、科学技術の発展を見れ
  ば、確かに正論にも思える。しかし、得られた証言が導き出された仮説
  に結びつかないからといって、証言から分析をした事象を一つ一つ丹念
  に突き合わす検証の努力をしなかったとしたら、仮説は正しいとは言え
  ないのではないだろうか。御巣鷹山日航123便ジャンボ機墜落事故の事
  故調査委員長が自己採点は70点とし、「これで全てが終わったのではな
  く、この報告書をもとに、様々な討論、検討を加えて、航空機の安全と
  事故の再発防止に役立てていただきたい」とコメントした際も、その趣
  旨が十分に踏まえられず、その後は立場や事情を強く反映したあざとい 
  情報発信が繰り返された過去を忘れてはならない。
 ⑤コンプライアンスの時代、組織の健全性、透明性を示すことが重要!
  今や、家族や職場の安全、安心が脅かされるのは事故だけではない。頻
 発する自然災害や凶悪化する犯罪とともに、エネルギーや食の安全安心
 も、国民の重要な関心事である。このため、各企業も各種事故を防止し地
 域住民の信頼を失墜させないことは勿論のこと、廃棄物の処理、危険物等
 の管理などを適切に行い、不必要な不安・心配を与えないことに加え、騒
 音や異臭など周辺住民の生活環境に対する影響の低減に取り組む等、社会
 の期待に対し積極的に応える時代に差し掛かっている。 

6 おわりに

 水俣の産業事故は、安全な環境の中で生きる住民の権利を犠牲にしてまで、野放図な経済的利益を強引に推し進めようという公共倫理の欠如(利益優先の企業論理)が招いた悲劇である。生命の危機に際しても、利害調整ができない住民に代わって、健康と福祉の権利を守るのは、最終的に自治体や国の責務ではないだろうか。当時経済企画庁水質調査課長補佐(故人)は、NHK の報道番組『日本人は何を目指してきたのか 第2 回水俣戦後復興から公害へ』での中で、「水産庁は、排水を止めろという意見だった。他の省庁は、止められないのではないかという見解」、「追いつけ追い越せの高度経済成長の時代だ、役人が何もしなかったと言われるなら、謝るしかない」、「ある意味で、確信犯だった」と語った。
  一方、同社社長は、「当時の人々が判断したんだから、今の人たちがどうこう言う問題ではない」、「どこを止めたら、良いか判らなかった」、「過去をとやかく言うとおかしくなる」と、先述の環境工学の専門家と同じ趣旨の発言をしている。このような過去を洗い流す(偽りの記憶をつくる)という日本人気質、組織的失敗の原因を論理的に解明しない(責任の所在を明らかにしない)日本社会の特質は、曖昧な決着(政治的手法によって解決する和解)と相まって、教訓を後世に伝えられず、未来を危うくするばかりである。今また、有機フッ素化合物(PFAS)による水道水の汚染が大きな問題となっている。住民の血液検査を行う自治体も出てきており、アメリカの学術機関が、「脂質異常症」や「腎臓がん」「乳児・胎児の発育の低下」などとの関連を指摘し健康リスクが高まるとしている血中濃度と比較しても、7~9倍にも上る異常な検査結果が出ているにもかかわらず、政府は、「現時点の知見では、どの程度の血中濃度でどのような健康影響が個人に生じるかは明らかになっておらず、血中濃度の基準を定めることも、血液検査の結果のみをもって健康影響を把握することも困難なのが現状だ」との見解を示し、何らのアクションをとろうとしていない。経済至上主義のもと、かつて規制をされなかった工場排水と同様に、依然として使用禁止となった農薬も監視が行き届かず依然としてタレ流され、川や海が汚染され続けている。各自が、責任を強く自覚し環境負荷を軽減する暮らしへ転換する時代になっている。

公害反対、自然保護運動の先駆者

田中正造(1841~1913年)

 明治20(1887)年ごろ、栃木県の中禅寺湖にほど近い足尾銅山から流れ出る鉱毒(銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸)は、渡良瀬川流域で頻繁に起こる洪水によって悪水(あくすい)となってあふれ、田畑を汚染し、作物が枯れる被害が続出するなど、大きな社会問題となった。このときの被害農民は約30
万人にものぼったとされる。もともと水質が良好であった渡良瀬川では魚介類も豊富で、3,000人もの住民が生計を立てていたが、1878年には鮎が大量死するなど漁獲量が激減し、既に被害が発生していた。しかも、こうした被害は鉱毒の悪水によって引き起こされるものだけではなく、燃料による煤煙、精錬時に発生する鉱毒ガス(二酸化硫黄)による有害物質が、近辺の山をはげ山と化し、土砂が崩れ渡良瀬川に堆積するなど、ずっと以前から周辺環境に著しく深刻な事態をもたらしていた。つまり、度重なる洪水は、山林の荒廃による影響であったのだ。煤煙被害などによって、多くの村落が廃村となり、多くの住民が離村、移住を余儀なくされたが、洪水対策により遊水池にされ、強制的に廃村にさせられた谷中村のようなケースもあった。しかも、明治24(1891)年、明治政府はチッソ水俣病の排水処理設備のときと同じく、精巧な粉鉱採集器をドイツとアメリカから買い付けて据え付けるから、鉱毒による被害はなくなると保証したのであったが、実際は選鉱機械であって、鉱毒の流出を防ぐ装置ではなかった。これ以降は、栃木県選出(佐野出身)の衆議院議員であった田中正造 氏(後に代議士を辞し、谷中村で反対運動に専念する。)が、国会で足尾銅山の鉱毒被害を訴えたことで、全国に知れ渡ることになったが、大正2(1913)年、巨星の逝去を境に反対運動の火は消えてしまった。その後、戦時の国策として銅の増産に反対する者は現れず、戦後になって言論や集会への弾圧が行われなくなると、次々と反対運動ののろしが立ち上がったが、操業停止は叶わず、1980 年代まで操業が続けられたのであった。平成23(2011)年に発生した東日本大震災の影響で、足尾銅山の堆積場(廃棄場所)の土砂が決壊し、鉱毒が、再び渡良瀬川に流れ出た。流出現場では青白く濁り、2km 下流の農業用水では基準値の約2倍の鉛が検出された。21 世紀の現在も他の産業事故と同様に、無害化はされていない。死の直前の日記(1912年)に、『 真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし』と書き遺している。

南方熊楠(みなかた くまぐす 1867〜1941年)

 明治39(1906)年、「神社合祀令」により鎮守の森の大木が、金儲けの伐採のために、川や海までが死に至るとして生態系が破壊されることを憂い、保護を訴える運動を起こした。これが、後の熊野古道(平成16(2004)年に世界文化遺産に登録)保存の原点となった。博物・植物・民俗学など幅広い分野を研究、海外の科学誌『ネイチャー』などに多くの論文を寄稿するなど、世界を舞台に活躍した真の科学者で、資料や標本は厖大に上り、全容解明の調査研究が現在でも続けられている。

■ 参考資料
庄司光・宮本憲一『日本の公害』岩波新書(1975年)
原田正純『水俣病』岩波新書(1972年) / 水俣病は終わっていない』岩波新書(1985年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本50年の現場』講談社文庫(1995年)
J.K. ミッチェル編、松崎早苗 監修(平野由紀子 訳)『七つの巨大事故』創芸出版(1999年)
(「水俣病被害: 企業・行政・地域社会はどう対応したか」は、熊本大学教授(当時)丸山定巳 氏の執筆)
富塚孝『厚生省薬害史』三一新書(1997年)
矢吹紀人『あの水俣病とたたかった人びと』あけび書房(1999年)
柳田邦男『この国の失敗の本質』講談社文庫(2000 年) /『緊急発言 いのちへ㈵』講談社(2000年) /『「人生の答」の出し方』新潮文庫(2006年) /『人の痛みを感じる国家』新潮社(2007年)
柴田鉄治『科学事件』岩波新書(2000年)
西村肇、岡本達明『水俣病の科学』日本評論社(2001年)
古田一雄、長﨑晋也『安全学入門 安全を理解し確保するための基礎知識と手法』日科技連(2007年)
原剛『農から環境を考える』集英社新書(2001年)

識者による見解

 柳田邦男氏は、水俣病について、「国は、経済成長政策の推進を最優先する立場から、チッソを温存させるため、根本的な排水規制も漁獲禁止もしなかった。既に劇症型の患者が、悲惨な症状で死んでいくことが続出していたにもかかわらず、通産官僚は対策の先延ばしに全力を注いだ。(略)このため、メチル水銀による汚染海域は不知火海一帯に拡がったばかりか、昭和電工によるメチル水銀を含む工場廃液の阿賀野川への排水を原因とする新潟水俣病まで発生した。」と総括した。また、「水俣事件、つまり病気としての水俣病ではなく、水俣病の発生と原因、拡大を防がなかった企業と行政の犯罪的失態、患者の飛散と救済の遅れなどの全体を表現する時、水俣事件と呼ぶべきだと思う。」との見解を述べている。更に続けて、「日本の公害の原点とされる水俣病の発生原因と拡大の構造には、日本の近代化の内部矛盾ー人間の面でとらえるなら、政治家、官僚、企業経営者、企業従業員、企業技術者、企業城下町住民、学会権威者、学者などの残酷なまでの利己主義、保身、権威主義、経済成長優先主義による被害者・弱者の疎外と無視ーのすべてが、あたかも博覧会の出し物のごとく組み込まれている。(略)そして、それら矛盾の一つひとつが、この国のシステムと専門家の在り方を根本的にかかわる問題として見直されなかったが故に、その後の公害や薬害の続発を防ぐことができなかった。」と的確に指摘している。加えて、言い換えるならば、として「高度経済成長のためには、つまり「豊かさ」を追究するには、有機水銀をタレ流しにしても、アセトアルデヒドの増産を中断することなく続ける必要があった。それは、一部の人間を踏み台=犠牲にして、多数が「豊か」になる社会システムだった。そして、専門家とは、いつも多数の側に奉仕するギルド集団だった。水俣事件はそのシンボルであり、数々の公害、環境破壊、薬害、災害、事故は、そのバリエーションだったと言わなければならない。」と糾弾した。
 熊本大学医学部の原田正純 氏(故人)は、1995年の「政府は未認定患者を水俣病と認定しない。患者側は訴訟などの紛争を一切終わらせる。」という、いわゆる「政治決着」は、「これによって、真の責任の所在を明らかにすることも、行政の責任と専門家の責任が表裏一体となっていることの構造を徹底的に解明することもできなくなってしまった。(略)和解は金銭的な補償をする患者の範囲を限定するために、特定の代表的な症状を示す者だけを患者として認めるという線引きを行い、病像の全容解明と被害の全貌解明の道を閉ざすものであった」と厳しく指摘した。
 『動き出した水銀規制〜水俣病の教訓をどう生かす〜』
(NHK「クローズアップ現代」H25.11.7放送)
  水銀は、これまで血圧計、蛍光灯、電池などに多く使用されていたが、現在は水銀に替わる素材や技術が開発され、日本国内での水銀の生産は激減している。その一方で、以前生産された製品に混入する水銀は、リサイクル業者によって回収され、海外に輸出されている。水俣病で学んだはずの日本
が、今は水銀の世界最大の輸出国となり、友好国ブラジルやアジア諸国を中心に水銀汚染が広がっている現実を、番組は伝えた。これは、従来メディアが積極的に報じてこなかった重要な日本の責務である。同時に、水俣病を過去の事として忘れてしまい、社会的関心を失っていたことの裏返しである。
日本政府が、「水俣病と同じ被害を繰り返してはならない」との決意で、国際連合環境計画(UNEP)の政府間交渉で働きかけ、2013年10月19日熊本で、2020 年以降水銀の輸出入を原則禁止にする「水俣条約」が署名・採択されたことが報道の契機となった。 


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