マインドフルな生活を心掛けてから10ヶ月ほど立つので体験をまとめます。
普勧坐禅儀
道元が帰国後にはじめて記した書です。ネットでチラッと調べると「万人に坐禅を勧めるもの」「坐禅の真髄を記したもの」と色々書かれてます。
私も読んだことがないので詳しくは知りませんが、いつだか聞いた坐禅の市民講義みたいなのでは、「道元の坐禅体験が記してある」というようなことを言っていました。
なので道元を真似して今日のnoteを書こうと思った次第です。
坐禅
とは言いつつも、正直、色んなやり方をしました。呼吸に注意を向ける瞑想、気づきをただ見ていく瞑想、慈悲の瞑想(祈り的な)、マインドフルネス瞑想、手を動かす瞑想あるいは動きながらの瞑想、などなど、
総じて言えることは、「一息一息、刹那の間の身体感覚、感情に意図的に注意を向ける」ようにしました。
簡単に言えば「今を見る」ことです。
一応毎日行いました。「一応」とつけたのは、1日たとえ10秒でも行ったと言うことにしたからです。人によっては10秒だけだったら続けていないと見なす場合もありますよね。
どうなったか
結論から言えば、「今は今」でした。
マインドフルネス・坐禅を行えば、集中力が上昇したり、ストレスが減ったりと言うことをよく言いますが、実際これに関してはどうでもよくなりました。そんなことより「今は今」ほんとにこれだけです。
どんなすごい効果があったのかと期待していた方、すみません。笑
どうでもよくなったと言いましたが、それはどういうことなのか以下に書きます。
集中力の上昇に関して
→よく聞く効果でありますが、むしろ「自分はこんなに集中力がないのか」と気づかされました。
しかし、それに関して批判的な見方はしておらず、「集中できるときもあれば集中できないときもある、私たちは思った以上に集中力をコントロールできないのだな~」と感じました。
以前の自分であれば、「これっぽっちしか集中できないなんて、なんてダメなやつなんだ。」と強く悲観してたかもしれません。※最初の方は結構悲観してました。
ストレスに関して
→やはりこれもよく言われる効果ですね。減ったというより「ストレスは完全にはなくならないんだ。」と気づきました。そして「多少ストレスがあっても今に集中することを繰り返せばなんとかなるかも」とも思いました。
上記に「以前の自分は悲観してたかもしれない」と書きましたが、これは少なくなったような。仏教ではよく「2つ目の矢を受けるな」、つまり二次感情を受けないようにするということを言いますが、まさにこんな感じ。
うーん、まぁ結果的にストレスが減っているというのでしょうかね。わかりません。
重要だと思った気づき
おそらくここからが重要な体験的気づきですが、やはり言葉にするのはとても難しいです。とにかく書いてみるので、わけわからなくなったらごめんなさい。
坐禅というのは、とてもシンプルです。ただただ坐るのみ。それ以外のことはしません。
私たちは普段、しゃべったり、行動したりしています。それを一切しないとなると、自然と「自分はなんなのか」という問いが生まれてきます。少なくとも私はそうでした。
そこで気づいたのは、
「私たちは何かをしていないと、つまり、周りの人や環境と関わっていないと、自分というものがなんなのかわからなくなってしまう」
ということです。
最初はとても混乱するものでした。自分はなんだかわからない感じ、なぜいるのか、そして必死に思考して自分を探そうとします。
しかし、坐ること以外は何もしていないので、自分を認識する情報がかなり少なくなっている状態でなかなか自分は現れません。
しばらく悩みます。「なんなんだお前は」「誰だお前は」と自分が自分に問います。悩んだ結果、とにかく自分を探すために、紙に自分のことを書くことにしました。
「私は~な人間だ。」この体裁で、とにかく当てはまる自分のパーソナリティを発見する度にたくさん書きました。
するともちろんたくさんの自分を発見します。コツコツかいていたら160個くらいありました。
いつもならここで、「色んな側面があるけども、どれもこれも自分なんだ」と思えるはずでした。
しかし、無限のパーソナリティがあるように思えてしまって結果的にまた自分が見えなくなっていきます。むしろ霧が濃くなってしまった感じ。モヤモヤした感じ。
それでも毎日とにかく「今」を意識した生活を心掛けていました。
するとふと、「まてよ、今は今でしかないじゃないか」「今、ここに命があるだけじゃないか」と超絶にシンプルな答えにたどり着きます。ほんとにふと気づきます。
とてつもなくシンプルな答えでしたが、とてもスッキリした感覚があり、さらに、精神的な自己が脳あるいは心(胸のあたり)にあると認識していたのが、環境と複雑に絡まった結果、自分が存在しているのではないかと認識するようになりました。
とても変なことをいいますが、なんか環境と一体になった感覚。といっても私たちは環境の一部なんだという感じではなくて、私たちは環境そのものみたいな。いや環境も私であるみたいな。うん、やはり言葉にならない。精神的自己が広がったっていう表現も近いような。
まとめ
実際のところマインドフルネスを続けたからといって、何かになれるわけではなく、ただ「今」を感じるだけでした。
だけでした。という言葉はネガティブな印象を与えてしまうと思いますが、私自身はネガティブな意味では使っていません。
良いとか悪いとかではなく、ただそれだけ。それを感じるだけ。
あえて1つ良い点を述べると、前よりも世界が鮮やかに美しく見える気がする。
長く失礼しました。読んでいただいてありがとうございます。
参考
私の坐禅体験記。
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