できないことをしようと思ったとき、私たちは常に「できない自分を見続ける」ことになる。
チャレンジ
私の定義でいうと、チャレンジとは「今現在できないことを、できるようにするための行動及び、その過程のすべて」です。
できないことに取り組む時、私たちの多くはこう思う。あるいはこう思った方がいいと言われてきた。
「はじめてやるんだから、できないのは当たり前」
「最初は失敗してもいいんだ」
「できないことは、恥ずかしいことじゃない」
「失敗は気にせず、どんどん行動していこう」
「少しずつできるようにしていこう」
他にもたくさん考えることができるけれども、基本的には前向きな言葉だと思う。
しかし
現実はどうだろうか?
「そんなことはわかっているけど、落ち込んでしまう」
「なぜできないのかと、自己批判する」
そして私たちは発見してしまう。
いくら前向きに考えようとしても、そう考えることのできないちっぽけな自分を発見する。
本来、こんな自分は発見したくなかった。
人間、特に日本人は汚い部分を隠そうとする傾向があるらしい。
かくいう私も、部屋は一見きれいだけれども、クローゼットの中、机の引き出しの中は汚いことがある。それにゴミ箱には蓋がついているものをチョイスする。汚いレベルが高くなるほどにゴミ箱にはより蓋をしたくなる。
何かにチャレンジするとき(し続けるとき)
私たちは、より深くまで押し込めていたものを常に発見しなければならない。
そういうときには、どうしたら良いのか。
「その汚い部分を認めてしまえばいい」
とまた私たちは前向きに捉える。
しかし現実では、
「認めようとしても、認められない」
またまた弱い自分を発見する。
そして
運がよければ、弱い自分を発見すると同時に、そんな中でも懸命に生きてる自分を発見する。
そのときに思う。これほど尊いものがあるのかと。
そして、また誰かの(自分の)ために目の前ことに取り組む。弱い自分と尊い自分を交互にあるいは同時に発見し続けながら。
まとめ
まとまらなかった。
参考
深夜に書いたラブレターは次の日の朝みると、超キモいがよくあるけど、まさにそんな感じになりそうなnoteを書いた。