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挑戦なんて、年老いれば老いてからの方がかっこいい


小学校一年生のとき、少林寺拳法を始めた。

なんで始めたとか始めるときに何を思っていたとかは全く覚えていないが、気付いたらもう始めていた。

お母さんに連れられて体験に行き、そのとき自分が黒のロンTを着ていたことだけは覚えている。


少林寺拳法と聞いて「あー少林寺拳法ね、はいはいはい」となる人はごく一部だと思うので、少しばかり説明をさせてもらうと、ざっくり言うと護身術を学びながら人として成長するのを目的とした武術である。

肉体的にも精神的にも強くなって、良き人格者になっていこうねみたいなノリだ。

技も沢山あり、自分から仕掛ける技もあるが、だいたいは相手の攻撃に対して突きや蹴りを繰り出したり、多種多様な関節技をキメまくったりするのがほとんどで、今考えると圧倒的に子どもに向いていないスポーツかもしれない。

練習中に痛い思いをして頑張って技を習得しても、実際に襲われる確率なんてほぼゼロに等しいのだから。
襲われたとしても相手が大人だと普通に力でねじ伏せられるし、相手が子どもだとしても子どもどうしの喧嘩に関節技は見るに耐えないものがある。

だが、あくまで人として成長するのが目的のため、ありがたい教えや厳しい指導、礼儀や発声など、技以外のところでも少林寺拳法で習うものは多かったかもしれない。

あと、少林寺拳法には「鎮魂行」というものがある。

聞き馴染みのなさすぎる漢字三文字に唖然としているところ申し訳ないが、少林寺拳法 = 鎮魂行といっても過言ではない(あくまで主観)。

そんな少林寺拳法を語る上でなくてはならない鎮魂行というものを説明したいのだが、これがどう説明していいのかわからない。

僕が説明すると「まあなんか長いやつをみんなで読む」になるので、ネットにのっているものをコピペさせていただくとする。

鎮魂行とは、座禅を組み,呼吸を整え、金剛禅の教えである「教典」を声に出して唱え自分に言い聞かせて心を正す行です。 金剛禅の鎮魂行で読む「教典」は、「お経(経典)」や「念仏」ではなく、人としてのあり方や、修行の心構えを自分自身に説き聞かせるもので、いわば「人生訓」や「道場訓」のようなものです。

だそうです。

伝わりましたか?

伝わらなかった人は「まあなんか長いやつをみんなで読む」と思っておいてください。

どんだけ長いのかと言うと、ざっと1000文字程度。

鎮魂行


これを毎回みんなで読む。

大人でも聞いたことのない、というかまず読めない言葉ばかりなので、これまた子どもに不向きな業であることは間違いない。

だが、毎週読んでいると勝手に頭が覚え、半年もすれば何も見なくても全部言えるようになるのだから不思議だ。

鎮魂行の途中に座禅を組んで黙祷する時間があるのだが、個人的にはその時間がだいすきだった。
精神が研ぎ澄まされるというかなんというか、心が落ち着いて安らげるような、これまた不思議な感覚に陥っていた。


そんな少林寺拳法を僕は小学校一年から中学校二年のまるっと8年間やっていた。

大会で優勝してメダルやトロフィーをもらったり、香川県の本部に赴いたりと割と真剣に打ち込んでいた。

なのに、僕は黒帯を絞める前に辞めてしまった。

歴と実績だけで言えば余裕で黒帯を絞めていてもおかしくないのだが、僕が通っていた道院の風習や当時の先生が異動になったりやらで、昇段試験の練習を中々できずにいた。

昇級や昇段試験の練習には先生からのゴーサインが必要で、そのゴーサインを僕はずっと待っていた。

1級になってから2年以上待ったと思う(通常半年ほどで受けれるのに)。

その頃、僕は剣道もやっていたので(どんだけ武道すきなんだよという声は流しておく)、中学で部活が忙しくなり、もう待てないと痺れを切らして、中学二年で少林寺拳法を辞める決意をした。

辞めるときに先生から、お願いだから初段を取ってから辞めてほしいと何度も言われたが、今更遅えよとしか思わなかった。

8年かけて黒帯寸前のところまでいき、先生からも黒帯を絞めてから辞めてほしいと言われたが、逆にここで辞めることによって、少林寺拳法への嫌味を示したのだ。

僕はこんなに怒っていると、他の道院のやつらは歴も浅ければ実力もないやつらがわんさか黒帯を絞めているというのに、何をしているんだふざけんじゃあないと。

勿論そんなことは一言も言わなかったが、そう思っているということを少しでも伝えたくて辞めた。

8年間真摯に取り組んできたからこそ、裏切られた気がしてならなかったのだ。

もう二度と少林寺拳法なんかやってやるかと思った。

この件に関しては、今考えても猛烈に苛々が押し寄せてくる。
こんなに風化しない苛立ちがあるのかというぐらいに。
もう苛立ちを通り越してなんなら逆に笑顔になるレベルだ。


だが、大人になるにつれて、皆さんもご存知のあの漢字二文字が浮かび上がってきた。

そう「後悔」である。

あのとき初段をとっておけばよかったと、歳を重ねるごとに苛立ちよりも後悔の方が勝ってきたのだ。

だが、こちらは一度少林寺拳法に対してアンチテーゼを立てた身。
ここで僕が少林寺拳法を再開するのは「こんな家出て行ってやるわよ!」と啖呵を切って家出したくせに、次の日に平然と戻ってくる少女のような感じがして、それは僕のプライドが許さなかった。


また少林寺拳法を始めたいという気持ちと、それを許さないプライドとがせめぎ合い、ここ数年はずっと悶々としていた。

だが、最近気付いた。

気付いたというかもう弾けた。

これはプライドが邪魔しているのでなく、ただ単に逃げているだけなのではないのかと思えてきたのだ。
大人になってから始めるのが恥ずかしくて、一歩を踏み出す勇気が足りてないんじゃないかと。

だって、僕より歴の浅い黒帯の学生と混じり、実は君たちより歴が長い28歳の茶帯が教えをこうなんて、考えただけで耳が真っ赤になりそうだ。
小っ恥ずかしいったらありゃしない。

だが、僕がその学生だとして、28歳から初段をとろうとする人間を笑うだろうか。
恥ずかしい有り様だなと思うだろうか。

いいや、思わない。

なんならかっこいいと思う。

挑戦なんて、年老いれば老いてからの方がかっこいいのだから。

なんでも遅いなんてことはない、今を生きよう。

そう思って僕は今年、少林寺拳法の体験を申し込んだ。

2024年は挑戦の年。
色々なことにチャレンジする第一歩として、わたくし慶士は、14年ぶりに少林寺拳法を再開することをここに宣言します。

約半生ぶりに何かを再チャレンジするとは思わなかったが、こんな人生も悪くないだろう。

今年中には初段を取り、立派な黒帯姿を見せれるよう邁進していきます。

南無、ダーマ。

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