衣服における季節のバトン
今日、2022年5月21日は二十四節気で表すと「小満」である。小満とは木々が青々しく万物の成長をする頃を意味し、立夏から数えて丁度15日目に当たる。
この小満の節気に入ると気温が高くなってきたことを肌身で感じるようになり、衣替えが近いことを感じさせる。特にこの小満の節気から次の芒種までのほんの2週間に着られるものとして「紗袷」があるが、現代社会の中ではなかなか着るタイミングが掴めず、呉服店でもあまり見なくなっている。
また秋草柄の紗袷はいつ着たらいいか?という質問もたまにされるが、おそらくそれを作ったメーカーは9月上旬に盛夏と単衣のバトンとしてのおしゃれとして提案したかったのだろうと個人的には推測する。紗袷の歴史は意外と新しく、また袷から単衣に移り変わるバトンのきものとして楽しむ位置付けではあるが、あまりにその期間が短いため、拡大解釈をして着る時期を少しでも多くして楽しまれているケースが多い。
さて現代の衣替えは、6月1日から単衣となり、7月、8月は盛夏、9月に単衣、10月1日から袷とおおよそ認識されている。とはいえ、現代のきものの世界では、この線引きは1つの目安であって、さまざまな解釈があり、最近では「気温や陽気に合わせて」と言われ始めている。よって、現代のきものの衣替えに絶対的な決まりはないと言っても良いのかもしれない。
衣替えの歴史は平安時代の宮中のしきたりとして記録が多く残っている。衣替えは平安朝服飾辞典(講談社)によると「更衣・衣更・衣替」と表現され、「季節によって衣服や室内の装飾・調度などを変えること」とされている。その決まりも陰暦4月朔日から夏の装い、10月朔日から冬の装いにあらためることが年中行事の1つであった」と記されている。
ちなみに源氏物語に登場する桐壺更衣(光源氏の母)の更衣とは、桐壺に仕えた後宮女官のことであり、元々は天皇や公家たちの衣替えの世話をする役職であった。そういったことから、平安時代の「更衣」は宮中において季節を知らせる大切な行事としてのバトンだったのかもしれない。
この更衣である衣替えは、江戸時代に入ると細分化していく。
陰暦4月1日から5月4日までが袷(あわせ)、5月5日から8月31日までが帷子(かたびら)、9月1日から9月8日までが袷(あわせ)、9月9日から3月31日までが綿入れ(表地と裏地の間に綿が入っているもの)とされていた。
もちろん一般庶民には季節によって変えるほどの衣服は持ち合わせていなかったので、主には武家や一部の富裕層の間でのことであろう。
では何故そこまで細分化されたのか?
諸説あるが、私は気候変動が関連しているのではないかと思われる。
下記の図は、東京大学大気海洋研究所が出した「西日本における歴史時代(過去1300年間)の気候変化と人間社会に与えた影響」という記事である。
簡単にいえば、平安時代前期から中期にかけては平均気温(25.2℃)よりも高く、江戸時代は平均気温より低いデータを示している。
また、江戸時代は度々火山の噴火や、それによって飢饉も多く発生したり、また雨天が多く、冬と言われる気温が今よりも長く続いたと言われている。
そういった気候変動により、社会活動や生活の変化が生じるのは当然のことであり、きものとしては現代でいう裏地付の袷の衣服よりより暖かい、綿を入れた厚手の衣服を着る期間が長かったというのはこの図から推測してもおかしくは無いだろう。
明治に入り、陰暦から太陽暦に変更し、軍服等の制服を夏と冬、今でいう6月と10月に変更するという衣替えを全ての衣服に適用したことで、特に気温が上昇している現代でのきものの着方には、誰もが大きな違和感を感じていることだろう。
そう考えると、日本の衣服文化の象徴であるきものの着方を、現在の気候に合わせた解釈に変更し、より快適に過ごせるようにすることが、和装振興に大いに貢献することにもなるのでは無いかと私自身は考えている。
きものは日本の社会構造やその時代の気候にあわせて独自に変化してきた衣服文化である。そして、季節の移り変わりによってバトンを繋ぐように素材や色、文様などで表現し、一年を彩ってきた文化でもある。その独特な日本の文化を次世代に伝承していく上でも、「今の気候と着方」をもう一度見直してもよいのではないかと感じる。
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