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巴紋 〜なごみ2023.1月号より〜
新年を迎えるにあたり、今回は読者の多くが初詣に出向いた際に目にするであろう巴紋を取り上げる
巴紋の呼称の起源は諸説あるが、弓の鞆(とも)に形が似ているからその名が付いたという説が多数派である。弓の鞆とは弓を引いた後、弦が腕に当たるのを防ぐ腕輪のような道具である。平安時代後期の説話集『江談抄(こうだんしょう)』には「太鼓乃左右ヲ知事ハ、左ニハ鞆絵乃数三筋也」と記され、「鞆絵」と表現されていたのがわかる。そのことから武運の神である誉田別命(ほんだわけのみこと)を弓矢八幡(ゆみやはちまん)と呼び、八幡宮の神紋が三つ巴紋となったとされる。
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巴紋の形象の起源は水の渦、太陽の光条、蛇など様々な説があり、その発祥地は古代メソポタミア、あるいはインドなど未だに定説はないが、日本の寺社では水を表す紋章として火除けの意味から軒瓦に巴紋を使っている場合が非常に多い。
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巴紋を家紋とした家は下野一宮二荒山の座主であった宇都宮氏が有名であるが、琉球王国の王である第二尚家が家紋としたことはあまり知られていない。尚家が三つ巴紋を使い始めたのは第一尚氏の尚泰久王時代とされる。巴紋入り軒瓦が出土していることから15世紀前半には紋章として使用されていた可能性が高い。その後、王家が第二尚氏に変わり、初代尚円王が清和源氏を祖と称したことから、源氏ゆかりの大分宇佐神宮を崇拝し、琉球王国の国章にもした。十七世紀初頭には薩摩藩の支配下となり、日本の茶の湯が広がっていく中で、尚氏の紋章である三つ巴紋が入った漆器も数多く作られた。
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日本では武運の神紋とされ、火除けの意味でもある巴紋は、日本の守護紋として今も深く浸透しているといえる。