鷹の羽紋 〜なごみ2022.12月号より〜
鷹の羽紋は動物紋の部門の属し、特に「違い鷹の羽」などは最も知られた家紋の一つといえるであろう。禽獣の羽を模したものであるが、平安時代の武官の礼装に用いられた武礼冠(ぶらいかん)に鷹の羽を差したことから、後に鷹の羽紋は多くの武人が家紋として使用するようになった。その種類もかなり多く、「違い鷹の羽」のほか、「並び鷹の羽」「抱き鷹の羽」「鷹の羽車」など多様な表現がされている。
鷹の羽紋が初めて歴史資料に登場するのは、「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」で肥後菊池氏の幟に記された「並び鷹の羽」である。よって現在のところ、鎌倉時代中期に肥後菊池氏が鷹の羽を家紋として用いたのが最初ともいわれている。
菊池氏は肥後国(現在の熊本県)の武将で、同国の一宮・阿蘇神社の神紋である「違い鷹の羽」を下賜され、それを「並び鷹の羽」として家紋にした。今でも九州南部に鷹の羽紋が多いのもこのような流れからである。
さて、12月は語り継がれている赤穂浪士吉良邸討ち入りの月である。発端となった赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の家紋は「斑入り違い鷹の羽」である。主君の仇討ちを果たした赤穂四十七士の一人である大高源吾は、あえて吉良家の茶匠である山田宗徧の弟子になり、吉良邸での茶会が12月14日に行われるという情報を引き出し、討ち入りの日が決まったことは有名な話である。
さらには討ち入り時に、千利休が桂川の漁師から譲り受けた魚籠を花入に見立てたといわれる「桂籠」を吉良邸から持ち去ったという。首を奪われないようにそれを打ち取った吉良上野介の首に見せかけて、麻袋に入れて槍に刺して偽装し行列したという逸話も残っている。もちろん真偽は定かではない。
元寇から赤穂事件まで、鷹の羽紋は永く武門の歴史に寄り添ってきた紋章といえよう。
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