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身体知による学びの深化:言葉を超えた理解への旅
分かりやすいYouTube動画の特徴?
知人が、Youtubeでスキーや料理の動画にはまっていると言ってました。
滑り方や作り方の解説動画ですが、分かりやすい人とそうでない人がいる、と。彼が分かりにくいと感じるのは、長嶋茂雄さん系です。いわゆる「ワーッとやって、ガーッと」のような教え方です。
オノマトペの効力:身体動作における擬音語の役割
確かになあ、と思いつつ、ワーッやガーッも有効な時があるように思います。特に身体動作を伴う場合には、擬音語が機能するようです。
オノマトペ的なことばの話に戻すと、僕たちはハードルを跳ぶ時に、「タタ・タタターンじゃない、タタタタ・ズッ・ターンなんだ」という表現をすることがあります。「ズッ」と音を入れた瞬間に、選手は1回、沈み込みが入る。「タタ・タタターン」は、ずっと高いところで跳んでいる感じですが、「ズッ」という低音かつ濁音が入ることで、動きが変化します。
こちらは、元オリンピアンの為末大さんが、言語学・認知科学を研究している今井むつみ先生との対談で語っていることです。
言葉と身体の対話:ハードル走における言葉の力
私たちは、身体を動かすときに、力の加減やリズム、地面から跳ね返ってくる感じなど、言葉にならない身体感覚を得ています。これを伝えようと思うと、やはり、ワーッやガーッになるのだろうと思います。
ハードルを飛ぶときの身体の使い方など、原理や仕組みは、ワーッやガーッでは伝わりません。具体的な言葉で順序だてて伝える必要があります。ただ一方で、聞いたことをその通りにやっても、十分に再現できないこともあります。
言葉と現実の多様性:文化と個人による捉え方の違い
言葉は、現実を写しとっていますが、そもそもの「現実」の捉え方は人によって違います。例えば、虹の色は国によって数が違います。アメリカでは8色、日本では7色です。月の模様をうさぎと捉える国もあれば、蟹と捉える国もあります。もしかすると個人個人に聞いたら、同じ国、文化圏でも違うかもしれないですね。つまり、同じ言葉を聞いて想起されるイメージや身体感覚は、一人ひとり違うのです。
為末大さんの教え方:たとえと擬態語を用いた説明の巧みさ
為末さんのYoutubeでの動画を見ているとある特徴があります。それは、身体の使い方について説明するときの「たとえ」や「擬態語」の巧みさです。
説明全体としては、以下のような流れが多いです。
なぜこの体の使い方が大事か
その使い方ができたり、できなかったりする人体の構造・制約の解説
そうした構造・制約を前提としたできるようにするポイントの解説
実際のトレーニング方法
基本的に、ワーッとかガーッとかいう説明のスタイルではありません。ゆったりと、ややほんわかと、理屈を説明します。その際、実際に身体を動かしながら話をします。そして、時々「ここで膝や足首を固めます。固めるといっても、硬いゴムのようなイメージです。それで、ポーンとバウンドさせる。鉄のようなカチカチの固さではないです。なぜなら…」といった表現が入ります。実に巧みに、身体的イメージを「硬いゴム」のようなたとえや「ポーン」という擬態語を使って補足しています。
理解から実感へ:言葉と身体感覚の融合
だから、聴いている側も分かりやすい。
私もマラソンをやっているので、よく為末さんの動画を参考にします。いつも身体を実際に動かしながら、視聴しています。
「たしかによく膝や足首を固めろといわれるからやってたけど、そういう理屈ね。あーなるほど、硬いゴムのようなイメージで動かすと…(実際に動かす)ああ、この感覚かあ」
聞いてみて、実際に動かして「ああ、この感覚かあ」が得られることが「分かる」ということだと思います。言葉で聴いて理解したつもりでも、それは、頭で知っているだけ。身体で分かるには、言葉を超えたところの感覚を得る必要があります。
これは、運動のことだから当然かもしれません。しかし、運動に限らず、分かるとは、身体感覚がセットだと思います。納得することを「腹落ちする」と「腹」を使って表現しますが、腹から分かるという身体感覚に根ざしているのでしょう。
理解の再構築:アンラーンによる深い学び
以上の話をいまいちど整理すると…
聞いたり読んだりして「いったんの理解」を作り(インプット)
その「いったんの理解」を自分で再現してみて(アウトプット)
「ああ、こういうことか」と身体感覚を得て理解を更新する(アンラーン)
となります。
3番目のアンラーンとは、自分の持っている理解に、違う角度から光があたることで、理解が再構築されることを言います。本質的な「分かる」はこのアンラーンです。アンラーンは「自分の持っている理解」が前提になっています。その理解は、それぞれの経験に基づくものなので、詳細に解像度をあげたら、まったく別々のものです。
ゆえに、2のアウトプットが必要になる。これは、表現された結果ではなく、表現しようとする過程でどんな身体感覚を得ているかに着目することが大切です。そこへ「硬いゴムのような」やときに「ワーッ(と言いながら体で表現)」という外からの補足が加わると、「あ、こういうことか」につながるのだと思います。
為末さんのようなエキスパートになると、自分の身体との対話を繰り返してきています。加えて、誰かに教えようとすることを通じて、捉え方の解像度や相手にあわせた補助線の引き方がうまくなっていきます。結果、自分の理解も更新される、そんなことが起こっているのだと思います。
インプットのスピードや量のことに目が行きがちで、結果、タイパを意識した倍速再生が行われます。そのタイパ意識は否定しません。インプットをある程度の量行わないと熟達には至らないからです。ただ、それは「いったんの理解」です。その先に「自分なりの理解」があります。これを探求することが学びの楽しさで、この繰り返しが自分だけの強みをつくるプロセスなのだと思います。