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ステレオタイプな表現

伊丹十三さんといえば映画監督というイメージが強いけれど、エッセイスト(随筆家ではない)としては、草分け的存在であるということを酒井順子さんの『日本エッセイ小史』という本で知り、その後名著『ヨーロッパ退屈日記』を読んだ。



伊丹十三さんの都会的なセンスと、ちょっと上から見る独特な感性に「流石だな」と唸ってしまったけれど、先日また『伊丹十三選集 二  好きと嫌い』(岩波書店)という本を借りてきて、読んでいる最中である。

その中で「紋切り型」の表現をする人を、著者が何より嫌悪しているのがわかり、興味深かった。

例えば、
スキーで転んで顔から突っ込むと、「顔面制動」
人が珍しく掃除なんかをしていると、「雨が降るわよ」といったり、
歩くことを「テクシー」
鼻の下が長いと「チューリップ」または「鼻下長(ビカチョー)」
ズボンのチャックを「社会の窓」
只乗りを「薩摩守」
質屋を「一六銀行」
などとユーモアのつもりで言い換える人を心底苦々しく思っていることがわかる。
そんな人たちに理解を示さないと、「あらケイコートーね」と鈍い人扱いされるのがオチ、ということらしい。

伊丹さんは、このような言葉に対する無神経さを嘆く。
それは、オリジナリティーを追求する心の裏返しだと思う。

他にも例が挙げられているが、殆どが死語で、ここには書けない差別的表現もある。

わたしは逆にこのような言葉遊びが好きで、「恐れ入谷の鬼子母神」とか「その手は桑名の焼き蛤」などはよく喉元まで出そうになる。
文章を書くときも、ついつい諺を引用したり、ありきたりの慣用句を使ったりするのが好きだ。
夫のことをアッシー君呼ばわりしたり、親しい仲なら、「OK牧場」と返信したりする。

雷が鳴ると「クワバラクワバラ」と唱える人、
くしゃみの後に「チクショー」という人などは、今ではめっきり見掛けなくなった。

昔のドラマなら、誰かの噂話をして「今頃くしゃみしているかもね」と笑い合い、
シーンが変わって、噂の人が「ヘックショーン」とやっている姿が映し出されるというワンパターン。

あまりにステレオタイプな表現や陳腐な表現をバカする反面、この場面ではこの台詞、みたいな決まり切ったやり取りに、一種の安心感を抱いてしまうこともある。
水戸黄門の印籠みたいに。

さて、長く鬱陶しかった夏もようやく去って行ったのか、昨日あたりから秋の空気に入れ替わったような気がします。
まさに、暑さ寒さも彼岸まで。