『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 16

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4-1-3. tool-in-the-making, work-in-progress  <完結性>の解体

 彼はドローイングについて次のように述べる。

「計画図は最終成果物として意図されたものである以上、資本の制約下にある実際の建築物が絶対に持てない自由度を持っているはずだ・・・落書きやポルノが、現実のものでは無視されるような卑猥さを持っているのと同様に、建築ドローイングは、実際の建物の日常体験が阻止する特殊な意味づけを保持できるのだ」92*

 チュミにとってドローイングとは、「実際の建物の日常体験が阻止する特殊な意味付け」を保持し、「実際の建築物が絶対持てない自由度」を持つものである。そしてそれは、「体験」のレベルに還元されてしまう実際の建物においては保持され得ない、前節で述べたような「暴力」の状態、「出来事」と「空間」との葛藤状態を示すための手段として建物以上の価値を持ちうるものとなる。ここに彼はドローイングを「建築的な探求の鍵となる手段」であるとし、また建築の「限界」(93*)と呼んで、その独自の可能性と価値を主張するのである。

 とはいってもチュミは、すべての建築ドローイングがそのような手段として機能出来るとは考えていない。むしろ先に引用した記述に見られるように(「平面図や断面図、アクソノメトリーがいかに正確で生産的なものであろうとも、それらは、建築をそこに表されるものへと論理的に還元してしまうことを含意し、別の関心を除外してしまう」(94*))、旧来のドローイングの手法によってはそれは不可能であり、この葛藤状態を示すためには新たなドローイングの手法としての「記譜法」を開発する必要があった。

「マンハッタン・トランスクリプツで行われた記譜法に関する作業は、建築の構成部品を脱構築しようとする試みだった。様々な記譜法は、通常の建築理論からは除外されているが、建築の余白や限界での作業には欠かせない領域の把握を狙ったものだった。」95*

 すなわち、『マンハッタン・トランスクリプツ』とは新しい記譜法の開発と導入によってドローイングを脱構築し、「建築の余白や限界」を把握しうるような手段へと鍛え直す試みに他ならなかったのである。

「それらの明らかな目的は、慣習的な建築の表象からは普通排除されているもの、すなわち空間とその使用との間の複雑な関係を書き写すことなのである。」96*

 このような新たなドローイングの手法の探求を通して、『トランスクリプツ』はついに「通常の建築理論からは除外され」、「慣習的な建築の表象からは普通排除されて」いた空間とその利用の間の葛藤状態を「書き移す(トランスクリプト)」ことを可能にした。そしてそれを実現した新しい記譜の方法とは、ドローイングの中に「シークエンス」を持ち込むことだったのである。

「記譜の3つのモード(出来事、運動、空間)の目的は、経験の秩序、時間の秩序――モメント、間断、シークエンス――を導入することである。・・・それはまた平面図、断面図、アクソノメトリー、透視図などといった一般的に建築家によって用いられている代理表象のモードを疑問視する要求から生じた。」97*

 シークエンスの導入は、ドローイングの中に時間性を導入することである。そしてそのことはすぐさま、通常の代理表象としてのドローイングのあり方を放棄することに繋がる。

「『トランスクリプツ』の役割は代理表象することにあるのではない。それらは模倣的なものではない。・・・それ故その一連の場面のリアリティは外部世界の正確な置換にあるのではなくて、それらの場面が表す内的な論理にある。」98*

  結果として『トランスクリプツ』は、すでにそれとしてあり、完結し、自律した建築の姿を描くようなドローイングとは全く異質なものとなる。それは完結したひとつの存在としての建築を写し取るという作業とは全く反対に、シークエンスの動きとともに、そのような像を解体、変容し、建築に「多様性」と「不決定性」とをもたらす。

「シークエンスのそれぞれの部分、それぞれのフレームは、その前後の部分の性質を定め、強化し、変容させる。そのように形作られた連合は、一つの事実よりもむしろ解釈の多様性を考慮する。それぞれの部分はそれ故、完全でもありまた不完全でもある。・・・不決定性は方法論的、空間的、物語的性質に関わらず、常にシークエンスの中にある。 」99*

 ここでいわれる「多様性」や「不決定性」等といった性質は、本章のはじめでウンベルト・エーコを引きつつ述べた、ポストモダンの時代の芸術の特徴に他ならない。我々が『トランスクリプツ』を通じて経験するのは建築の<自律性>と<完結性>の解体なのである。そしてその時、「そのような断絶は、建築の静的な定義に対置された動的な着想と、建築をその限界へともたらす過剰な運動を仄めかす。」(100*)と言われるように、建築は不安定なもの、移りゆく、動的なものとして我々に現れる。そしてまた「『トランスクリプツ』をみることはまた、それらを構成することを意味する」(101*)といわれるように、『トランスクリプツ』を見る時、我々はその瞬間瞬間において新たな建築が生成していく過程そのものに立ち会うこととなるのである。言い替えるならこのドローイングは、いま正にその内部において建築がなされゆく場に他ならない。チュミはこのようなドローイングのあり方を以下のようなことばで表している。

「それらは全く定義的な主張を持つものではない。それらは制作中の道具atool-in-the-makingであり、進行中の作品work-in-progressなのである。」102*

 このようなドローイングの使用は、建物の代理表象でないばかりか、コンセプトであれ、別の何らかの<アンビルドな属性>であれ、ある表象の伝達の媒体としては既に捉えられないということが出来るだろう。たしかに、ドローイング表現の手法としていうならば、例えばコラージュを用いて新たなイメージを生じさせるという点においてテラーニやコルビュジェのものと類似のものであるようにも思える。しかしながら、これらとの決定的な違いは、それがいかなる完結したイメージも伝達しようとしてはいないという点である。『トランスクリプツ』においては写真を付与されることで生じるイメージ自体が重要なのではなく、「写真」の表す「出来事」によって撹乱の作用が起こり、その「暴力」によって建築が解体され、変容されていく、その過程こそが重要なのである。つまり、テラーニなどの場合にはそれが<アンビルダブルな属性>であれ、ある建築家の最終的なイメージというものが存在し、それを伝達するものであるのに対して、チュミの場合にはそのような最終的な提示物が存在しないのである。

 『マンハッタン・トランスクリプツ』は、シークエンスという新たな記譜法の作用によって時間性を建築の中に導入し、建築の<自律性>と<完結性>とを奪って、動的な状態に置く。そして解体された建築は、そのドローイングの内部において常に問い直され、作り替えられ、新たに建築されていく。チュミの『マンハッタン・トランスクリプツ』はこの意味において前章までに述べたいかなるドローイングとも異なっており、建築を脱構築し、いわばそれ自体において建築をなすものとして、これまでのいかなるドローイングも獲得することのなかった最も高い価値を獲得するのである。

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92* チュミ『建築と断絶』, p.15
93* Tschumi, The Manhattan Transcripts, p.6
94* ibid., “ILLUSTRATED INDEX THEMES FROM THE MANHATTAN TRANSCRIPTS”, XX
95* チュミ『建築と断絶』, p.205
96* Tschumi, The Manhattan Transcripts, p.7
97* Tschumi, The Manhattan Transcripts., “ILLUSTRATED INDEX THEMES FROM  THE MANHATTAN TRANSCRIPTS”, XXIII
98* ibid., p.8
99* ibid., XXIV
100* Tschumi, The Manhattan Transcripts., p.9
101* ibid.. p.9
102* ibid., p.6


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